いまから40年前のきょう、1977(昭和52)年9月27日午後1時20分頃、神奈川県の厚木基地を飛び立ち、横須賀に停泊中の空母ミッドウェーに向かっていた米軍のRF4BファントムIIジェット偵察機が、横浜市緑区(現・青葉区)の宅地造成地に墜落した。空中で炎上した偵察機は、火だるまになった破片を周囲300~400メートルに飛び散らせた。これにより民家と木造アパートが全焼、9人がやけどなどで重軽傷を負う。うちエンジンの直撃を受けて全焼した民家では、妻(当時26歳)とその息子で3歳と1歳の幼い兄弟、夫の妹(当時26歳)が大やけどを負い、兄弟は翌28日未明に収容先の病院で息を引き取った。妻も意識不明の状態が続く。一方、操縦していたパイロット2名は墜落前に脱出して無事だった。

 重大な事故であったにもかかわらず、原因解明のための調査はことあるごとに米軍側に阻まれた。事故機の残骸は事故の翌日、早々に厚木基地に運び去られた。事故の原因と見られたエンジンは米本国に送られたことが10月になってわかり、当時の横浜市長・飛鳥田一雄は抗議声明を発表、ただちにエンジンを送り返すようカーター米大統領宛てに電報を打つも、返還までには1ヵ月近くを要した。そのエンジンの調査も、日米合同委員会の事故分科委員会によって行われたとはいえ、米軍機事故は米側に第一調査権があるとの1952年の合意から、日本独自の調査はできなかった。78年1月、事故分科委は日米合同委に調査結果を報告、原因はエンジンの組み立てミス、乗員らは無過失であると結論づける。その後、80年になって神奈川県警は米軍のパイロットらを書類送検したが、横浜地検は不起訴処分とした(講談社編『昭和 二万日の全記録 第16巻 日本株式会社の素顔』講談社)。

焼き尽くされた事故現場 ©共同通信社

 意識不明となっていた妻は、やがて生命の危機から脱した。しかし、全身の8割にやけどを負ったため、皮膚の移植手術を繰り返し、その回数は70回にもおよぶ。夫と父親の提供する皮膚だけではとても足りず、新聞で募ったところ、多くの申し出があり、のべ80人ほどから皮膚の提供を受けた。この甲斐もあって、79年6月に退院する。入院中、回復を待って、子供たちの死を知らされた彼女は、「人を恨んではいけないが、やはり私は米軍とパイロットを恨む」と日記につづっていた(土志田和枝『あふれる愛に』新声社)。その後、リハビリを続けながら、将来の計画も立てていた彼女だが、82年1月26日、心因性の呼吸困難を起こし亡くなった。現在、横浜の港の見える丘公園には、亡くなった3人をモデルとした「愛の母子像」が建つ。