いまから41年前のきょう、1976年3月23日の午前9時50分頃、右翼の大物・児玉誉士夫(65歳)の私邸の上空で、軽飛行機が何度も旋回したかと思うと、ふいに機首を下げ、同邸2階のベランダに突っこんだ。折しも、その前月に発覚した米ロッキード社の航空機売り込みをめぐる疑獄事件で、児玉は同社の日本側の秘密代理人と目され、その関与が取り沙汰されていた。この事故で邸宅の一部が炎上。児玉は2階で療養中だったが、1階に避難して事なきを得る。一方、飛行機を操縦していた29歳の男は即死した。
男は前野光保という映画俳優だった。15歳のときに前野霜一郎(そういちろう)の芸名で日活映画でデビューし、日活がロマンポルノ路線に転換した1971年以降は、絡み役での出演が多くなっていた。ロマンポルノ以前の作品では、藤竜也や梶芽衣子らと共演した『野良猫ロック ワイルド・ジャンボ』(1970年)での、不良グループの一員の役が印象深い。
前野が飛行機の操縦免許をとったのは、オートバイ事故で大けがを負い、俳優としての将来に不安を感じたのが動機だった。このとき、飛行訓練所でのきびきびした合宿生活が気に入り、軍隊教育に共感を示すなど、しだいに心情的に右傾化していったらしい。ロッキード事件が発覚すると、「児玉は右翼などではない」と激しく憤っていたという(赤塚行雄『戦後欲望史 転換の七、八〇年代』講談社文庫)。その日、彼は、撮影所から持ち出した神風特攻隊の制服をまとい、「七生報国」と書かれた鉢巻きをして飛行機に乗りこむと、無線機に向かって「天皇陛下バンザーイ!」と叫びながら児玉邸に突入していった。
この事件を受けて、同じく映画俳優の菅原文太が、『ユリイカ』1976年5月号に「前野光保君」と題するコラムを寄稿している。菅原はそこで、前野が行動の多様さを放射状に展開しながらも、それらは「たたむバネのない開きっぱなしの傘みたい」になっていたのではないかと推測した。当然、このままでは風向きに逆らえば吹き飛ばされる。だが前野の場合、「それを潔ぎよしとしないきまじめさが、バネ装置をつくる過程を省略して、一気に自殺へと結びついたのかと思う」というのだ。
ちなみにこのコラムの結びで、菅原は自分を前野とくらべ、「私は筋金入りの怠け者で、だらだらとなりゆきにまかせてその日を送り、食いたい時に食い、眠りたい時に眠る暮しを最上のものと心得ている鈍角的で曲線的な反自殺型人間である」と定義した。だが、奇しくも菅原はちょうどこの時期を境に、社会へのコミットを深めていく。80年代には、在日韓国人のための老人ホームを建設するため、募金を呼びかけるなどした。晩年にいたっては、若者たちと有機農業に取り組んだほか、社会を見つめ直す運動体「いのちの党」の発起人にもなる。けっして「怠け者」とはいいがたい後半生ではなかったか。