去る8月17日、スペインのバルセロナなどで自動車を使ったテロ事件があいついで起き、15人が死亡した。このような不特定多数を標的としたテロ事件は、21世紀に入ってからというもの世界各地で止むことがない。

 日本でもかつてテロ事件が続発したことがあった。いまから43年前のきょう、1974(昭和49)年8月30日午後0時45分、東京・丸の内の三菱重工業本社ビルが爆破され、通行人など8人が死亡し、376人が重軽傷を負った。約3週間後の9月23日には「東アジア反日武装戦線『狼』」が犯行声明を出す。このあとも、74年秋から翌年春にかけて、東アジア反日武装戦線の「狼」「大地の牙」「さそり」の各部隊により、三井物産・帝人・間組などの企業爆破が繰り返され、社会を震撼させた。

 1970年以降、学生運動が退潮するなかで、武装闘争をもって社会の変革をめざすグループがいくつか現れた。大道寺将司らが結成した東アジア反日武装戦線はそのひとつで、アジアに対する日本の侵略と植民地支配の歴史を省みるなかで、その加害責任はいまだ果たされていないとの認識を持つようになる。71年に熱海の殉国七士の碑などを侵略の象徴として爆破したのを皮切りに、爆弾闘争を進めるなか、やがて軍需関連の企業などを標的に据えた。

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 東アジア反日武装戦線のメンバーは、普段は会社員などとして市中に潜伏していたため、捜査は難航した。しかし、警視庁は75年2月28日の間組爆破後に非常事態宣言を発し、同年5月19日にはメンバー8名を一斉検挙するにいたる(このときメンバーのひとりが青酸カリ入りのカプセルを飲んで自殺した)。取り調べの過程で、彼らは当初、昭和天皇のお召列車を爆破する計画を立てたものの、実行直前で中止されたこと、そのとき用意された爆弾が三菱重工爆破に使われたことなど衝撃の事実もあきらかとなる。

爆風でほとんどの窓ガラスが割れた三菱重工ビル ©時事通信社

 逮捕・起訴されたメンバーのうち、佐々木規夫および大道寺あや子と浴田由紀子は、日本赤軍によるマレーシアの米・スウェーデン両大使館占拠事件(75年)と日航機ハイジャック事件(77年)で、犯人側の要求を飲んだ日本政府の超法規的措置により出国、日本赤軍に合流した。一方、79年11月には、東京地裁で、大道寺将司と益永(旧姓・片岡)利明に死刑判決が下される(のち87年に最高裁で刑が確定)。政治活動家に対する死刑判決はこれが戦後初だった。三菱重工爆破事件はまた、「犯罪被害者等給付金制度」の成立(1980年)のきっかけにもなった。

 なお、大道寺将司は今年5月24日、収容先の東京拘置所にて68歳で死亡した。獄中で脳出血、さらには多発性骨髄腫を発症し、長らく闘病生活を送っていたという。