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超進学校でこそ非認知能力が涵養される逆説

 いま流行りの言葉を使うならば、超進学校ほど「余白」を活かして「非認知能力」を伸ばす教育に取り組んでいるといえる。非認知能力とは、ペーパーテストでは測定できない複合的な能力のことである。代表格としてコミュニケーション能力、忍耐力、主体性、やり切る力、レジリエンス(復元力)などが挙げられる。

©️文藝春秋

 逆に大学入試などのペーパーテストで測定しやすい能力を「認知能力」と呼ぶ。2000年ごろから文科省が提唱する「生きる力」とは、要するに「認知能力」と「非認知能力」を合わせた総合力のことだ。大学入試改革も「脱ペーパーテスト」によって非認知能力に光を当てたかったわけだし、新学習指導要領の狙いもそこにある。

 拙著に登場するような学校の生徒たちは、高い認知能力のみならず高い非認知能力を身につけて卒業する。しかし私が意図した結論は、「このような学校に入るといいよ」ではなく、「お上の言うことなんていちいち気にせずに、どんな学校でも、こういう教育を優先してみてはどうか」という提案である。

「目覚ましい進学実績を残している学校だからこそこのようなゆとりある教育が行えるのだ」という指摘もあるだろう。正しい。ただそれはあくまでも「何はともあれ高い大学進学実績を出すことが高校教育の使命であるかのように思われている」という現状認識の上に成り立つ理屈だ。

 そのような理屈がまかり通る限り永遠に、結局一部の進学実績上位校の生徒しかペーパーテスト対策を超えた教育を受けられないことになる。全国の高校がどんなに必死で進学実績を上げようとしても、難関大学合格という椅子取りゲームの椅子の数は増えないのだから。

求められる“モノサシ”の改革

 このような状況は、格差を助長するだけでなく、大半の若者がその本来の「生きる力」を十分に開花する機会を逸するという意味で、甚大な社会的損失ももたらす。いくら学校教育の中身を改革しても、そこから出てきた若者を評価する“モノサシ”が旧態依然であれば、結局学校は変われない。

 本気で教育改革をしようとするならば、まず変わらなければいけないのは学校ではなく社会のほうである。