父親の顔を知らない娘
そのまま、彼にとりすがろうとすると、警官がそれをとめた。サリンとわかっていて、さわれば皮膚の上からも身体に浸透していく。最愛の夫の身体に触れることすら、許してもらえなかった。
「布の上からも、ちょっとさわったら怒られて……。私は、抱き締めたかったのに……、ぬくもりを感じたかったのに……」
それから、1カ月が過ぎた4月22日、彼女は女児を出産している。
「主人が亡くなって、主人のことばかり考えていました。階段を昇り降りしているときでも『この階段を踏み外せば……』と思うことがありました。だけど、私だけ死ねない。お腹の中のこの子は助けたいけど……私はずっと、主人のもとに行きたいと思っていました……」
夫の残した労災年金と遺族年金で生活を続ける毎日。やはり、家族の大黒柱を失った経済的な損失は避けられなかった。それでも、働きには出ていないと言った。
「主人が子どもを一生懸命育てて欲しいと望んでいると思ったので、手が離れるまでは、と……。父親のいない分、愛情を注いでやりたいと思って……。主人が生きていてくれれば、まず子どもを抱いてほしかった。子どもにも、父親の顔を見せてやりたかった」
子どもを不憫に思うことはありますか、と検察官が訊く。
「公園で遊んでいる子、父親に肩車をされている子をみて、うらめしそうに見ていることがあります。自分の父親がいないことはわかっているのに、どうして自分にはいないのかと……。自分では、母も父もこなそうと思っていますが、でもやっぱり父親にはなれないと思う」
被告人に言いたいことはありますか、と検察官に振られて、彼女は襟を正すようにして、最後にこう述べている。