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地下鉄サリン「私の娘がそういうことをしたら死刑になるべき」 臨月で夫を亡くした妻の“哀しい嘘”

『私が見た21の死刑判決』より#24

2021/01/23

source : 文春新書

genre : エンタメ, 社会, 読書

 1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、やがて教団の犯した事件に関与したとされる信者が次々と逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。 サリンを撒いた実行犯たちに死刑判決が下される中、化学兵器サリンの生成者である土谷正実は「黙秘」の姿勢をとり続けていた。検察は何も語らない土谷に対して、事件の遺族を証人として呼び寄せ、遺族感情を聞かせていった。

 その判決公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(全2回中の2回目。前編を読む)

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身重の妻

 土谷の作ったサリンは、いろんな人の人生を変えていった。

 それは、これから生まれてくるはずの子どもの人生すら、大きく変えてしまった。

 日比谷線で死亡した当時29歳の会社員の妻のお腹の中には、妊娠10カ月の子どもがいた。出産予定日は4月19日。ちょうどあと1カ月でめぐり合えたはずの親子の出会いすら、奪ってしまった。

 その妻が、土谷の法廷で証言に臨んだ。

 彼女は、その日の朝食の献立も覚えていた。

「いつもは、前の日にごはんを作っておいて、送り出すのですが、その日は早く起きて、主人のために朝食をつくりました。ベーコンエッグにトーストだけでしたけれど、『ごはんだぁ~!』と言って、とても嬉しそうにしていたのを覚えています」

©iStock.com

 その朝食をふたりで済ませると、いつものように、玄関で出勤する彼を見送っていた。

「3階に住んでいたのですが、妊娠も10カ月目で、『重いものは持たないほうがいい』と言って、ゴミの日には、俺がゴミを持っていってやるからな、と……」

 そこに主人の優しさを感じていた、と言った。

 その日は、臨月ということもあってそのまま休んでいると、9時半頃に事件を知らせるニュースの速報が流れた。そこへ、夫の会社から電話が入る。御主人が病院へ担ぎ込まれたから、至急そちらへ向かうようにとの連絡だった。そこで、身支度を整えていると、再度会社から連絡。危険な状態なので早く病院へ向かうようにとの催促だった。すると、その直後に、今度は警察からの電話が鳴る。