1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、やがて教団の犯した事件に関与したとされる信者が次々と逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。 サリンを撒いた実行犯たちに死刑判決が下される中、化学兵器サリンの生成者である土谷正実は「黙秘」の姿勢をとり続けていた。検察は何も語らない土谷に対して、事件の遺族を証人として呼び寄せ、遺族感情を聞かせていった。

 その判決公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(全2回中の1回目。後編を読む)

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妹の亡くなった場面

 それから続いて、白髪の痩身な女性が入れ代わって法廷に入ってきた。当時50歳だった妹を地下鉄サリン事件で失っていた。被害者の女性は、一度離婚してから、ずっと独りで暮らしていた。

「天真爛漫で、明るい性格の妹でした。真面目で、仕事には特に真直ぐで真正直でした。若い頃からカトリックに入信していて、毎週日曜日には、必ずミサへ出かけていました」

 ひとり暮らしであったことを気にして、時々お姉さんにこう言っていたそうだ。

「ひとりで苦しんで、どこかに死んでいっちゃうのかな、そんなことを言うものですから、そんなことはないよ、私たち家族がいるじゃない、と話していました」

 そんなこともあってなのだろう、事件からしばらく経って、妹の亡くなった場面を知っている人を探して回った。八丁堀の駅の助役を訪ね、最初に妹に近付き、人工呼吸をしてくれた女性がいたことを知った。また構内放送で呼びかけたことで、駆け寄ってくれた医者がいたことを知った。消防署の人たちも救命活動をしてくれていた。

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 姉は、妹を助けようとしてくれた人たちを探し出し、そして会ってまわった。6人姉妹だった被害者の、妹たちもいっしょだった。

「妹の最後を知っておきたかった。それに、ご自分達もサリンの被害者になりながら、献身的に助けてくれた人に、御礼を言いたかった」

 最初に妹に寄り添ってくれた女性は言ったそうだ。