今年は夢枕獏さんの人気作、『陰陽師』の連載が『オール讀物』で始まってから、35年を迎える。夢枕さんは「物語を持たない社会は滅びる」という、脳科学者の中野信子さんの発言に興味を持ち、対談のお相手に中野さんをリクエストした。一方、中学生の頃から夢枕さんのファンだったという中野さん。“物語と脳”にまつわる刺激的な対談を『オール讀物』より紹介する。(全2回の2回目。前編より続く)

◆◆◆

「わたし」は本当に存在するのか

夢枕 僕は「私」とは何かってことにもすごく興味があります。驚いたのは、人間には運動準備電位というものがあって、自分が行動を起こそうと考える前からその働きが始まっているんですよね。たとえばモノを持つときも、「持とう」と思う0.何秒か前に、持つための行動が起こっちゃってる。

ADVERTISEMENT

 

中野 ジャンケンも同じなんですよ。自分がグーを出そう、と意思決定する前に体はグーを出す準備をしている。

夢枕 言ってしまえば、なんでも「私」が意思決定しているような気がしてるけれど、実は行動してから「私」が出てくるってことじゃないですか。実は「私」というのは存在しないんですかねえ。

中野 「私」という幻がある、という感じでしょうか。たとえば「脳は心か?」という議論があるんですけど。

夢枕 (自分の心臓を叩いて)みんな、心は「ここだ」って言うけど、たぶん本当の心の場所は脳ですよね。

中野 そう考える人が多いですね。けど、本当にそうかはわからない。もしかしたら身体全体が「心」かもしれないし。

夢枕 僕は人体というのは全部、脳じゃないかって仮説を持ってるんですよ。指にも足も神経は行ってるわけで、どれも脳の一部なんじゃないかと。

心臓はココロではなくデバイスの画面

中野 職人さんの中には、手が脳みたいな人もいますしね。脳が意思決定機関と思われているけれど、実際にやっていることは、情報の統合だけなんじゃないかと言う人もいます。たとえば、アプリを起動すると、機能は画面上にあるように一見、見えるじゃないですか。でもそのアプリの実体がどこにあるかといえば、ハードディスクかもしれないし、CPUかもしれないし、ソースコードなのかもしれない。それと似たような話で、人間は何かしらの感情が生起した際、一番反応するのは心臓だから。

夢枕 心臓がドキドキするから、胸のあたりに心があると思っちゃう。

中野 そうそう。この場合の心臓はデバイスの画面と考えると理解しやすい気がします。わかりやすく変化が表れる部分、というところですね。ただ、じゃあ実際に心はどこにあるのかと聞かれると、これはまだ誰にも答えられない。

夢枕 なるほど。さらにいうと「私」って簡単に変わる気がするんですね。具体的な話だと、僕の担当でヒラ社員のときは差別語問題で共闘してくれた編集者が、いざ出世して編集長になると、「いや、獏さん、これはちょっとやめてくれませんか」となったり(笑)。立場が変わると、脳はそっちのほうに寄り添っていくんですかね。