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「臨時コーチ」就任は「古田政権」への布石になる?

 さて、選手として、誰もが認める輝かしい実績を誇る古田さんだが、唯一思うような成績を残せなかったのが、06~07年の選手兼任監督時代なのである。野村さんの死後出版された『一流非難 プロ野球スーパースター異説』(双葉社)の「古田敦也」の項には、以下のような記述がある。

「プレイングマネージャーは負担が大きすぎる」と語った野村克也 ©文藝春秋

 球界を代表するキャッチャーとなった古田だが、選手兼任監督を務めた2年間は失敗したと言わざるをえない。就任1年目の2006年こそ3位だったものの、翌2007年は最下位に沈み、現役引退と監督退任を決断している。

 

 私も南海時代、1970年から1977年までの8年間、プレイングマネージャーを経験した。その間、リーグ優勝は1973年の一度だけ。「二兎追う者は一兎をも得ず」というのが正直な感想だ。なにしろ、負担が大きすぎるのだ。しかも、私の現役当時より、今の野球は大幅に進化している。監督だけでも大変なのに、選手兼任など、どだい無理な話である。

 ノムさんが指摘するように、複雑化が進み個々の役割分担が明確になっている「近代野球」において、何から何まで一人でこなす「プレイングマネージャー」という職責はあまりにも負担が大きすぎる。古田監督時代の2年間は、「代打、オレ!」が話題となり、「いつ自ら代打で登場するのか?」と注目され続けた。チームの指揮と、一選手としての活躍と、ファンサービスをも求められていたのである。

1997年日本シリーズ、優勝の瞬間に抱き合う古田(左)、高津(中央)、石井一久(現・楽天イーグルスGM兼監督) ©文藝春秋

 結果的に07年に最下位となったことで、「監督失格」の烙印を押されるような事態となってしまったことが返す返すも口惜しい。ノムさんの言葉を借りるならば「選手兼任など、どだい無理な話」なのだ。今回の「臨時コーチ就任」が、来るべき「第二次古田政権」の呼び水となるであろうことは想像に難くない。残念ながら、今春キャンプは無観客開催となってしまったものの、「古田臨時コーチ」が、2年連続最下位に苦しむヤクルトにどんな新風を吹き込むのか今から楽しみで仕方がない。