義兄の入国へ同胞が尽力
面会後、こうした疑問を弁護士に問うと、詩織の説明とはいささか違っていた。
確かに詩織の強い要望で、裁判所に証人申請をし、許可が出たが、実際のところ、何との連絡が取れず、全くのお手上げ状態なのだという。
「田村さん、何か方法はないですかね」と逆に相談される始末だった。
しかし、これもなにかの縁と考え、私は、先の中国訪問でハルピンの奥地で苦楽を共にし、さんざん世話になった通訳の馬に連絡を入れ、手を貸してくれないかと頼んでみた。
すると馬は私の依頼に驚くべき誠実さで応えてくれた。
義兄の何にビザを取得させ、新潟への直行便があるハルピンの飛行場まで送ってくれるという。しかも何が新潟に着いてからは、日本に知り合いの中国人留学生がいるから、彼に電話で誘導させて東京のホテルに送りこむから安心して任せて欲しいという。
願ってもない提案だが、それでは余りにも心苦しい。
「飛行機代や宿泊代は詩織がなんとかするようだが、馬さんへの謝礼はそれほど支払えないと思うよ」と言うと、馬は呵々大笑した。
「ボランティア、ボランティア!田村先生は日本で事件に巻き込まれた中国女性のために、こんな奥地まで来てくれました。だから今度は私が協力する番です。事件のことは、先生と何さんとの通訳時点でだいたい理解しました。同胞が日本で苦難に遇っているのに、知らん顔など出来ません。それに私は旅行ガイドだから、こうした事はお安い御用です」
かくて、ビザ取得には相当苦労しながらも、英語も日本語も話せず、飛行機に乗ったこともない何は、07年11月19日の午後遅く、無事東京に到着した。
ホテルに会いに行くと、それまでの緊張を一気に解き、例の皺だらけの顔を一層くしゃくしゃにして握手を求めてきた。そこに、何を新潟から東京のホテルまで公衆電話でのやりとりで誘導してくれた、留学生の陳(仮名)もやってきて、3人は何が土産だと持ってきたハルピンのお菓子をほおばりながら、しばし、歓談した。
陳は、弁護士と何の、裁判の打ち合わせの通訳もする予定だというが、どうやら、それもボランティアらしい。
馬も陳も、中国では一応ミドルクラスに入る人たちだろう。その彼らが一面識も無かった貧しい農民工のために一生懸命になっているのを見て、私はちょっと感動していた。中華民族の紐帯の強さということなのだろうか。