東庵は正親町天皇(坂東玉三郎)、伊呂波は関白近衛前久(本郷奏多)と関わり、駒と3人で、光秀と重要人物をつなげる役割をする。あともうひとり、家康の手下で、庶民のなかに混じって暗躍する菊丸(岡村隆史)がいて、終盤、家康と光秀を繋いだ。
「ご都合主義」との批判もあるが……
これらオリジナルキャラの働きを「ご都合主義」と指摘する視聴者もいるが、そこはドラマ(フィクション)。歴史的局面を繋ぐために機能する人物を作ることは大目に見たいところ。
だがしかし、知ってる武将たちと比べて、知らない架空の人物にはどうも親しみがわかず、応援しにくいと思う人の気持ちもわかる。やっぱり知ってる人物のほうが応援しやすい。「麒麟がくる」では主人公の光秀とゆかりのある人物として、三英傑のみならず、斎藤道三(本木雅弘)、朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)、斎藤利三(須賀貴匡)、のちの細川ガラシャことたま(芦田愛菜)などが出てくると、有名な場面が見られるかなと期待し、身を乗り出して見てしまう。
だが、道三以外は、期待していたほど活躍しない。にもかかわらず、オリジナルキャラの出番が多いと、それより有名なあの場面を描いてほしいと思ってしまうわけだ。
久秀や家康の“オリジナルエピソード”を評価する声
とはいえ、歴史ドラマ好きの視聴者も、なんでもかんでもオリジナルなものが嫌いなわけではない。「麒麟がくる」で光秀に多大な影響を与える存在として描かれた松永久秀(吉田鋼太郎)は、光秀と久秀がこんなに強い絆で繋がっていることは創作にもかかわらず、その友情は視聴者から好意的に受け止められた。久秀は爆死(これも史実ではないのだが)することで人気の武将。彼の爆死が描かれず残念という声もあったが、死に方がかっこよかったのでオンエア後は盛り上がった。
また、家康が竹千代時代、人質の身から逃げようとしたとき光秀に助けられ、干し柿をもらう心温まるエピソードもドラマの創作だが、やはり好意的に受け止められている。
大河ドラマ「義経」の演出家・黛りんたろうは著書『大河ドラマ「義経」が出来るまで』で「ドラマと名がつく以上、フィクショナルなイマジネーションが入ることを前提としている。ドラマの真実は、虚構の上に成り立つ真実であり、そこがドキュメンタリーとは根本的に異なる」と、歴史ドラマにおける虚構の必要性を説き、例として、大河ドラマ「秀吉」(1996年)で、秀吉と石川五右衛門が幼馴染だったとし、秀吉と明智光秀が青年期に出会っていた、という設定にした結果、「ドラマとして大きく膨らませることができたし、大いに共感もよんだ」と書いている。