そして「黄金の日日」(1978年)で、実在したとはいえほとんど記録が残っていない商人・呂宋助左衛門(市川染五郎、現松本白鸚)を主人公にする。さらに「獅子の時代」(1980年)では架空の人物である会津藩士・平沼銑次(菅原文太)と薩摩藩士・苅谷嘉顕(加藤剛)を主人公にした。
どちらも名作として誉も高い作品だが、主人公がオリジナルの大河はなかなかハードルが高く、「三姉妹」は大河史上(といってもまだ5作しかない時代だが)初の平均視聴率10%台の19.1%、「獅子の時代」は21%とその前後作と比べると芳しくはなかった。だからというわけでもないとは思うが、オリジナルキャラを主人公にした大河ドラマは極めて少ない。
架空キャラの成功例は?
庶民の視点を大事にするにしても、主人公の周辺にオリジナルの登場人物を配置し、視点に幅をもたせるほうが無難である。前述の「赤穂浪士」は有名な大石内蔵助と四十七士とそれを追う架空キャラの配分がよく視聴率も31.9%と好成績だった。
「麒麟がくる」と同じ池端俊策が書いた「太平記」(1991年 原作:吉川英治)には、旅芸人一座がオリジナルで登場し主人公と絡み、宮沢りえが演じる藤夜叉は足利尊氏(真田広之)の子供を生む。原作小説に書かれたオリジナルキャラをドラマ化にあたり、役割に厚みをもたせ、物語をドラマティックにした。
著名な歴史人と魅力的なオリジナルキャラによって、いまでいう「歴史秘話ヒストリア」のようなドラマ仕立ての歴史ものとは異なる、歴史をもとに豊かなイマジネーションを湧かせて描く創作ドラマとしての大河ドラマは魅力的なものになる。かつての成功体験が伝統として残っているのだろう。
駒は“大河の歴史”に刻まれるか
もっとも「赤穂浪士」や「太平記」に出てくる架空の人物は、大佛次郎、吉川英治の小説のなかですでに登場済みのオリジナルキャラなので、彼らがドラマではどう描かれるか比較するという楽しみがまたひとつできるのである。逆に、面白いのか面白くないのか指針のないものに対して、視聴者は強い警戒心を抱く。昨今の原作ものの映画やドラマが好まれることとも近い反応だろう。
視聴者の多くは見知らぬ人物に賭けるほどの余裕はない。テレビドラマは気軽な娯楽なのだから、安心して見たいのだ。ただ、「真田丸」のきりは最後の最後で信繁に長年寄り添ってきた想いの実るいいシーンがあって、ようやく視聴者も彼女に拍手を贈った。
このように最初は馴染みのない人物でも結局のところ1年間通して見ていると情が湧いてくることもある。「麒麟がくる」の駒も最終回ではきっと愛情をもって拍手を贈られるのではないだろうか。そのときやっとオリジナルキャラは大河ドラマの歴史に刻まれる。