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謝罪する気はあったのか? 森喜朗氏の大炎上会見を通してみられた「肯定的幻想」

臨床心理士が、仕草と言葉を分析する

2021/02/06
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「報道の仕方」と他人のミスだと指摘する

 不作為バイアスとは、「何かをして失敗するなら、何もしないでマイナスになる方がマシ」と考える傾向である。森会長を辞任させるより、失言があっても続投させる方がマシと考えるのかもしれない。今辞められても、JOCには適任者がいないという内部事情も漏れ聞こえてくるが、それもこれも森会長の肯定的幻想をサポートしているにすぎない。

「私は組織委員会の理事会に出たわけではない」

 JOCの評議員会で名誉委員という立場で挨拶をしたと釈明するが、組織委員会だろうが評議員会だろうが、五輪に関わる委員会の会長職ある人物の発言に変わりない。だが、ここを一緒にされるのが解せないらしく、「報道の仕方」と他人のミスだと指摘する。発言のどこがどう不適切と考えるかと尋ねられると、「男女を区別するような発言」と微妙に論点をずらしていく。謝罪したところでそこに反省はない。

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「自分たちが女性の理事をたくさん選んだけども、結果としていろんなことがあった」

「割れ窓理論」という理論がある。1枚の割られた窓をそのままにしていると、割られる窓が増えていき、いずれ街全体が荒廃してしまうという現象のことだ。女性を差別するような風潮をスポーツ界は長年そのまま放置し、五輪精神にある平等という窓はその多くが割られてきたのだろう。その結果が森会長の発言や会見での態度である。「山下さんはそういうことで今後苦労されますよと申し上げた」と、森会長は今後女性の理事が増えることを心配しており、根本的な意識は変わらない。

©iStock.com

「私は」というワードを連発して自分の成果や存在を主張

 謝罪会見として見たならば、謝罪しながら視線を上げない、頭は下げない。気に入らない質問がくると口元にグッと力を入れ、ジロリと記者を一睨みし、気が昂ぶるのか早口でまくしたてる。記者の質問を遮り、声を荒げ、語尾がきつくなる。類似の質問が続くと「面白、おかしくしたいから聞いてんだろう」と逆ギレ。口元を歪め記者に背を向けるという謝罪会見にあってはならないこと尽くし。

「私は」というワードを連発して自分の成果や存在を主張し、さながら独演会のようだった。権威を持てば物の見方が硬直化すると言われるが、目の前の記者に苛立ち、カメラの向こうに国民の目があることを忘れている。

 菅首相は森会長に辞任を求めず、大会組織委員会は議論しないらしい。このままでは森会長の差別的発言は“謝罪会見”をもって幕引きとなってしまう。日本では五輪における平等の窓は、この先も割られ続けるのだろうか。

謝罪する気はあったのか? 森喜朗氏の大炎上会見を通してみられた「肯定的幻想」

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