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「いかに信念のない政治家が多いことか」と語っていた菅氏

 菅は国会議員になってからもすぐに「勝負師」気配を見せた。98年の自民党総裁選で政治家一回生ながら梶山静六を担ぎ出したのである。

 このときの状況は金融危機、消費税で橋本龍太郎首相が退陣。ポスト橋本の大勢は小渕派領袖の小渕恵三だった。しかし同派の梶山静六は派閥を離脱し、独自の経済構想を掲げて総裁選に立候補。ここで大きな働きをしたのが菅だった。

《菅は小渕派の平成研究会に所属していた。梶山を担ぐとなると、小渕派から離れる以外にない。こうして衆院一回生時代の菅が事実上、自民党総裁選で梶山擁立に動いたのである。(略)いかにも無鉄砲な武勇伝として、このときの出来事がいまも永田町で語り継がれている。》(『総理の影 菅義偉の正体』森功、小学館)

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©JMPA

 生意気な一回生議員は大御所たちを激怒させたが、それと同時に存在を認めさせた。菅の「武勇伝」の一つである。後年、菅本人がインタビューで当時を振り返った言葉が面白い。

《あの選挙をやって、私はすごく勉強になりましたし、永田町という政治の世界が見えてきました。いかに信念のない政治家が多いことか。勝ち馬に乗ろうとする。真剣勝負で戦ったのでいろんな風景が見えました。》(同書)

 この言葉は興味深い。何回も味わいたい。というのも昨年9月14日の自民党総裁選での菅圧勝の要因はなんだったか。菅という「勝ち馬に乗った」派閥が多かったからである。

菅氏が自分を「勝ち馬」に見せた“独特の戦法”

 当初、安倍と麻生が考えていたのが岸田文雄だった。岸田を評価していたからではない。石破が嫌だったからだ。

《安倍の考えはシンプルだった。「石破の総裁就任は避ける」という一点に尽きた。》(『喧嘩の流儀 菅義偉、知られざる履歴書』読売新聞政治部、新潮社)

《麻生もまた、石破のことを忌み嫌っていた。》(同書)

安倍晋三氏 ©文藝春秋

 しかし岸田と石破の「1対1」だと石破が勝つという「懸念」が大きくなり、安倍と麻生は焦りだした。このタイミングを読んで菅が手を挙げたのだ。菅&二階が機先を制して勝負の流れが決まり「勝ち馬に乗った」派閥が続いた。

 時系列を書くと、総裁選が告示される前の8月30日に「菅氏 総裁選出馬へ」という情報が一気に広まった。その3日後の9月2日、自民党の細田派、麻生派、竹下派のトップがそろって記者会見し、総裁選で菅を支持すると表明した。まるで「分け前を俺たちにも寄越せ」と渋々訴えているようだった。

 あの「勝ち馬に乗ろうとする」会見を見て「いかに信念のない政治家が多いことか」と菅は今回も思っていたのだろうか。それとも信念のない政治家の習性を読んで先手を仕掛け、自分を「勝ち馬」に見せたというのが今回の戦法だったのだろうか。