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「異分子的存在」から考える「森喜朗の苦手なこと」

 それでいえば森喜朗の著書『遺書 東京五輪への覚悟』(2017年)にこんな記述がある。JOCは「異分子」が入ってくるのを嫌う体質で、森喜朗はスポーツ関係者でないことから「一番の異分子」であり、そのため警戒されて大事な会議があっても直前まで教えてもらえず、参加できないこともあったという。

 ところが今や、見事に人心掌握を果たし、「異分子」を排除する立場に君臨している。では、森喜朗にとっての「異分子」とはなにか。それは表立って自由に発言する人たちだ。

森喜朗(右)と歴代総理の小泉純一郎(右から2人目)、福田康夫(右から3人目)©JMPA

 それについては、スポニチのウェブ配信記事「森氏失言の背景にJOC女性4理事」(注3)が分かりやすい。JOCの理事会はもともと原則的に公開で行なわれていたが、「公の場で話せない内容が多く、本音の議論ができない」(山下泰裕)との理由で、非公開にする決議をおこなう。その際に反対票を投じたのは、いずれも女性理事の、山口香、高橋尚子、小谷実可子、山崎浩子の4名であった。

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 また同記事では、コロナ感染が広がる昨年3月に、東京五輪について山口理事が「延期しないで開催するという根拠が見つからない」と発言したことをきっかけに開催延期にむかったことも背景としてあげている。

 開かれた場で適正に物事を決めていく。森喜朗はこうしたことが好きではないのだろう。それはどういうことか、彼の人生を振り返ってみる。

実績&能力不足を“どうにかしてしまう人”

 森喜朗の失言年表を多くのメディアが作成しているが、おおむね首相在任時の「神の国」発言(2000年)に始まる。それ以前のものでは「言葉は悪いが、大阪はたんつぼだ」(1988年)があるが、首相就任以前の森喜朗といえば、早大「雄弁会」出身、文教族で党三役(幹事長・政調会長・総務会長)のすべてに就き、三塚派を継承した代議士くらいの印象の政治家であった。

1969年、初当選した頃の森喜朗。初当選時は32歳だった ©共同通信社

 こうした森喜朗の人となり(習性)を知るのにちょうどいい逸話が2つある。回顧録『私の履歴書』(2013年)をもとに紹介すると……大学進学にあたって早大ラグビー部に入りたいが学力が足らず、そこでラグビー部の監督のもとに頼み込みに行くなどして入学を果たす。「合格点には達していなかったかもしれないが、足らざるところはラグビー部推薦でゲタを履かせてもらったのだろう」とあけっぴろげに述懐している(そうまでして入るが練習についていけず、4ヶ月で退部)。

 また就職に際しては、「私の成績で新聞社に入るのは相当困難」であったことから、政治家に口利きを頼み込み、産経新聞の社長から「担当者に話しておこう」との言質を取る。ところが人事担当は採用試験を受けろと言ってきたため、「試験は絶対に受けない。水野社長との約束を守ってほしい」とゴネて就職してしまう。

総裁選に出ないまま総理になった ©文藝春秋

 このように森喜朗は、能力や実績が不足していても、コネを使ったりゴネたりして、どうにかしてしまう人なのだ。総理大臣になるにしても、小渕首相が脳梗塞で倒れたあと、森喜朗を含む自民党幹部の「5人組」での密議のなかで、「あんたがやればいいじゃないか」(村上正邦)との言葉を引き出し、自民党の総裁選を戦わずして最高権力者になる。当時、派閥の長でありながらも、自分よりも当選回数も少ない同派閥の小泉純一郎に人気で劣っており、総裁選には出られずにいたのだから、この密議がなければ首相になることはなかったろう。