1984年は中国で資本主義化が始まった「会社元年」にあたるという。この一大転換の年に作者・景芳は生まれた。本書は、作者と同じくこの年に生まれた軽雲と、やはり同じ年に中国から去った父親の人生が交互に綴られる、“自伝体”小説だ。
詳細に時代の光景を描き出す筆致は、時代も空間も、時に次元も越えて自在に行き来する。景芳の、細やかだが決して感情に溺れない描き方は、そこに生きる人々の心情をより生々しく浮かび上がらせ、読む者の記憶と感情をも引きずり出す。たとえば大学卒業を控えた軽雲の、着々と進路を決めていく友人たちの中で自分だけが取り残されているという焦りや、社会に馴染めない苦しみ。共感する読者も多いと思う。
自分はなにものか。自由とは何か。真実は存在するのか。この普遍的な問いは、文革の暗い時代を生きた父にも影のように寄り添い、放浪へと急き立てる。「どこかにいけば自由が見つかる」。娘はそう思いながら、どこにも行けない。この父と娘は鏡であり、互いに自分が選べなかった道を選んだ者どうしでもある。時代も生き方も対照的だが、身に抱えるものは同じだ。
「自由じゃないなんて言える? こんなにたくさんの選択肢があって、不自由なんていえるの?」
主人公の言葉は、何不自由なく育った世代が本能的にもつ後ろめたさを感じさせる。監視と恐怖、貧困で構成された暗黒時代に比べてずっと恵まれている。にも関わらず、自由ではないと感じてしまう心苦しさ。
軽雲には、こうした悩みを唯一打ち明けられる年上の友人「彼」がいる。彼は、「統治者は人々が自分で物事を考えるのを妨げるために貧困に陥れる」「もし人々が満たされれば、自分の頭で考えることを好むようになるはずだ」と語る。軽雲は逆に、満たされれば人々は物質的な欲求を優先して頭で考えることはなくなる、だから統治者は全力で人々を富むよう仕向けるのだと反論する。これはそのまま、前時代と現代に生きる者が認識する現実の差なのだろう。結局、自由の問題は外ではなく、自分の中にあるということになる。
「自由とはどこまでも拡大し得る自己のことなのだ」
「それがあるか否かにかかわらず、『真相』は自分で見つけることはできる」
ここに至るまでの葛藤の描写は、時に目を背けたくなるほど凄まじい。これは自由を求める普遍的な物語であり、現代中国の大河小説であり、そしておそらくSFとも言えると思う。
1984といえば、オーウェルの『1984年』を真っ先に思い浮かべた人も多いだろう。本書もオマージュとなるシーンがいくつも出てくるので、合わせて読むといっそう面白い。そしてある仕掛けに気づいた時、驚きとともに、自由とは何かという問いを改めて突きつけられることだろう。
ハオジンファン/1984年、中華人民共和国天津市生まれ。作家。2006年清華大学物理系卒業、13年清華大学経済管理学院博士学位取得。16年、『北京折畳』でヒューゴー賞中編小説部門を受賞。
すがしのぶ/1972年、埼玉県生まれ。作家。『革命前夜』で第18回大藪春彦賞を受賞。『芙蓉千里』『また、桜の国で』等、著書多数。