「最初の選挙は厳しい戦いでした」
「会社に入って僕は政治家の先生のところに営業し、仕事をもらっていました。広告代理店ですから、選挙のポスターづくりなどのお手伝いをするわけです。菅先生は選挙ポスターの写真などを撮るときもせっかちで、『ああ、これでいいよ』と頓着しないタイプでした。それで仕事として、どんどん選挙に関わるようになっていったのです。菅先生が2区を選んだのは西区の市会議員だったからでしょう。たしか橋本(龍太郎)総理が応援に入ってこられた。とくに最初の選挙のときは厳しい戦いでした。ここには公明党系の現職がいて、新人の菅先生がそこに挑んだかっこうでしたから」
折しも、菅の初当選した96年の小選挙区制導入総選挙は、日本の政局が目まぐるしく動いていた時期だ。自民党を離党した小沢一郎が93年8月、日本新党の細川護煕らと八党派の連立政権を樹立する。そこから下野した自民党の橋本龍太郎や野中広務たちは94年6月、日本社会党の村山富市を担ぎ上げ、新党さきがけと連立して政権与党に返り咲いた。このとき小沢が公明党や民社党などに非自民の再結集を呼び掛けて結成したのが、新進党だ。そこで公明党はいったん解党し、所属議員たちは新進党への合流組と、地方議員を党に加え、新たに看板をかえて発足した公明への残留組に分かれた。そんな激動のなかで実施されたのが96年の総選挙だったのである。自民党執行部としては、どんな候補者でもいいから衆院の議席を増やしたかった。新人の菅がそこに紛れ込んだ。
秘書から見た菅義偉
20年の長きにわたり、菅の秘書を務めてきた渋谷健は、初当選のときに秘書として選挙区を駆け回った一人だ。現在もなお自民党菅軍団の横浜市議として、菅を支えている。
「もともと私は20代のころ、代議士を目指していた別の方の秘書兼運転手をしていました。その方が3回連続して衆院選に落選し、私自身も民間企業に就職したんですけど、35歳のとき、もう一度政治の道に戻ったらどうか、と菅さんを紹介されたのが出会いでした。いまと同じようにぶっきらぼうに、自分の言いたいことだけを言って、じゃあ頼むって感じ。なるほど、これは面白い人だと思い、いっしょにやらせてもらえるよう頼んだのが、20年前でした」
渋谷がそう当時を振り返った。元横浜市議会議長の藤代と同じような話をするが、少しちがうところもある。
「菅さんは衆院選に出馬する1年半前に市議を辞めていて、苦しい時代でもありました。菅さんの選んだ神奈川2区の西区、南区、港南区のうち、西区はもともと小此木さんの地盤ですけど、南区と港南区は縁のない選挙区だったわけです。だから衆院の出馬はかなり思い切ったチャレンジでもあった。おまけに自民党から飛び出した人たちがつくった民主党(新党さきがけから派生)に佐藤謙一郎がいて、彼が2区から出るものと見られていました。民主党の佐藤謙一郎は非常に選挙に強いので、当時からいえば、菅さんは勝てねえべ、という下馬評でした。そしたら何を思ったのか、その佐藤謙一郎が神奈川1区に逃げちゃった。それで助かったのです」