創価学会との激突
それもラッキーだった。もっとも真の強敵は佐藤ではない。最も手強かった対立候補は、新進党(現・公明党)公認の上田晃弘だった。自民党にとって、新進党との対決選挙のなかで最大のポイントが、旧公明党の選挙組織、創価学会とどう戦うか、である。自民党は宗教法人の政治介入を問題視し、創価学会名誉会長の池田大作の国会喚問を持ち出した。いきおい選挙戦では、自民対創価学会の対決が全国で繰り広げられていったが、なかでも菅の出馬した神奈川2区は激烈な選挙となった。
「上田さんは創価学会の青年部長をやっていて、まさに学会保守本流のど真ん中にいた。学会内で絶対偉くなるといわれていた方です。公明党を母体とする新進党としては、絶対落とせない候補者だから、徹底した組織選挙を展開していました」
神奈川2区には民主党の大出彰も出馬していたが、上田に比べるとまだ楽な相手だ。渋谷がこう続ける。
「当時、自民党は創価学会を目の敵にしていて、亀井静香さんあたりが四月会を結成して池田名誉会長批判を展開していたころです。だからわれわれも学会批判をめちゃくちゃにやったし、向こうも真剣勝負でした。たとえばとつぜん宣伝カーの前に、2~3人が立ちはだかって道をふさいだり。ひどいときは道路に寝転んだり。ある夜、事務所の玄関にバーンと大きな音がするので行ってみると、大きな石が投げ込まれ、車が走り去っていった。僕の家に夜中じゅうファックスを送りつけてきたこともありました。まさかみずから名乗るわけではないので相手の正体はわかりませんが、そんな熾烈な選挙でした。で、大接戦の末、2000票ぐらいの僅差で当選できたのです。いわばあれが運命の岐路でしょう。負けていたら、菅さんはおそらく秋田に帰っていたと思います」
容赦ない池田大作批判
このときの選挙で菅陣営は、人間の仮面をかぶった狼などと書いたビラまで配り、池田大作批判を展開したという。自公が連立政権を組んでいる現在、公明党や創価学会は政権を担うパートナーであり、菅は創価学会との太いパイプを築き、党内きっての調整役にもなっている。
ちなみに小沢の率いた新進党は98年に空中分解し、所属議員の多くが出戻って公明党が再結成された。ここからいまの自公連立政権の道筋ができあがっていく。菅にとって衆議院二期目となった2000年6月の総選挙では、菅本人が創価学会に選挙協力を求めた。
「いまほどじゃないですけど、二回目の選挙のときには、手のひらを返したように、自民党本部が創価学会と手を組んだわけです。で、学会から一度挨拶に来いって言われ、菅さんと二人で、山下公園のところにある創価学会の(神奈川県)本部へ行きました。会ったのは地域トップの方ですけど、『菅さん、あんたこないだの選挙で、池田大作先生のことを何て言った? あんなに批判しておいて気持ちは変わったのか』と一時間ほど、ねちねち延々とやられました。いやあ、すごかったです」