ある日現れた「監督」
来年こそは、平安中学や急速に力をつけてきた京都師範といった地区のライバルたちを破って甲子園に――。栄治が手ごたえを持って冬季の練習に励んでいたある日、京都商業のグラウンドに丸眼鏡をかけた恰幅のよい壮年の紳士が姿を現した。これが、投手・沢村栄治の最初の本格的な指導者となる慶応大学野球部監督・腰本寿(1967年野球殿堂入り)だった。
腰本は、ハワイ生まれという異例の経歴を持つ野球人だ。13歳のとき、ハワイに遠征してきた慶応大学野球部の関係者の目に留まって来日し、学費などの援助を受けながら慶応義塾普通部から慶応大学に進み、二塁手として神宮で活躍した。
卒業後は、慶応義塾普通部を率いて第2回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園大会の前身)で優勝。その手腕を買われて、31歳にして慶応大学野球部初の専任監督に就任するや、理論的な指導と奇策縦横の采配でたちまち優勝を重ね、9年間で7度優勝という慶応大学の黄金期を築いた名監督だった。
この頃の腰本は、中学の好選手のスカウトに意を用いていた。それは、ハワイ遠征で自分を見いだして育成し、慶応の監督にまで引き上げてくれた慶応のスカウト力に深く感謝していたことと無関係ではあるまい。特に、宮武三郎、水原茂といった慶応大学の主力選手を輩出している香川の高松商業とは好関係にあり、シーズンオフに長期の指導に出向くのが恒例化していたのだった。
実は打撃フォームも美しかった沢村栄治
高松に出向く途中、突然京都商業に立ち寄ったのは、好選手を探す腰本のアンテナに、既に栄治の存在が認識されていたことを示すものだ。栄治の投球を目の当たりにした腰本は、高松商業行きをしばらく延期して京都商業のグラウンドに連日足を運び、付ききりで栄治の指導に当たったという。
栄治の打者としての素質をも見抜いた腰本は、それまで右打ちだった栄治を左打ちに転向させた。栄治は長打力はあまりないが、ミートがうまく俊足だった。左打者になれば、その2つの長所を生かして好打者になれる。腰本は、そう考えたのだろう。後に栄治は、職業野球で代打としても起用されるほどの美しいフォームを持つ左打者になる。