「日本野球史上、最高の投手は?」という質問は、どの時代もファンの間で話題になる。1990年代以降は野茂英雄、松坂大輔、上原浩治、ダルビッシュ有、田中将大などメジャーリーガーたちを相手にする投手も続々と現れ、海外の強打者たちとの対戦が連日に渡ってくり広げられたことで、ますます議論の幅は広がった。
ここで上がった投手たち全員が受賞しているのが、その年の日本プロ野球で最も活躍した先発完投型投手を対象として贈られる特別賞「沢村賞」。その由来になっているのが、伝説の速球投手・沢村栄治だ。
NPB史上初の最多勝利・MVPを獲得し、史上初のノーヒット・ノーランも達成。1934年には日米野球にも出場し、ベーブ・ルースらレジェンド選手を擁するメジャーリーグ選抜チームを8回1失点におさえた。一方で、その後、度重なる徴兵で肩を壊し、3度目の軍隊生活で27歳にして戦死した悲運のエースでもある。
そんな沢村栄治の生涯を追った『沢村栄治―裏切られたエース』(文春新書)より、彼の全盛期が始まろうとするまさにその瞬間を引用して抜粋する。
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1931(昭和6)年秋、京都商業の2年生で14歳になった栄治は、内野手としての練習に汗を流していた。
この年の11月、読売新聞が主催した第1回日米野球が全国を転戦して開催され、関西でも名古屋の鳴海球場と甲子園球場で試合が行われた。対戦したのは全慶大、全早大、そして関西大だったが、力の差は歴然でほとんど試合にならなかった。
この3年後に行われる第2回の日米野球で17歳の栄治が快投を演じることになるのだが、京都商業という平安中の壁に阻まれてまだ一度も甲子園出場を果たしていない無名の中学校、その投手板にも立てていない栄治にとって、大リーグ選抜軍、ルー・ゲーリッグ、レフティ・グローブなどの名は、あまりにも遠い存在だっただろう。
“京都商業に浮き上がるような速球を投げる怪投手がいる”
1932年、京都商業3年になった栄治は、ようやくチームのエースとして対外試合で投げるようになった。小学校で全国大会で活躍した投手でありながら、なぜか京都商業では2年間マウンドから遠ざけられていた栄治は、打撃投手をしながら制球を学ぶなどして蓄えてきた力を一気に解き放った。
“京都商業に浮き上がるような速球を投げる怪投手がいる”。デビュー戦となる同志社との練習試合で好投し、その後も快投を続けた栄治の評判は、1年を戦ううちに京都から次第に関西へと拡がっていった。