1ページ目から読む
4/4ページ目

 その当時、ぼくは週刊誌上でこの判決が下った意味の大きさについて触れていた。クスリのいわば副作用で、人を傷つける大事件を起こす事例を司法が判断しているのだ。その服用者の数からして、隣を歩いていた人間が、いつなんどき、通行中の人間を襲うような通り魔に変質することだって、考えられる事態だったのだ。

 それが、今ごろになってお役所が騒ぎだすところが、不思議でならない。

 死刑が回避されるほどの重大事件を、個人の刑事責任が問えなくなるほどの事例を、みすみす見逃してきている。

ADVERTISEMENT

 それだけ司法の死刑判断と、国民の健康維持や生活安全とは、別世界のことだったのだ。

どの鑑定を採用するのか

 このハイジャック犯の死刑回避判決の要となったように、いくとおりもの鑑定結果がでてきて、どれを判決に採用するのか、しないのか、の判断もすべて一般素人の裁判員に任せられることになる。

©iStock.com

 裁判員の対象事件となる刑事被告人の多くがSSRIの服用歴があったところで、これを裁く裁判員にだって同剤の服用者がいることもあり得る。そんな裁判員が、自分の常用薬の副作用を理由に死刑回避を認められるものだろうか。

 まして、大阪池田小学校児童殺傷事件の宅間守死刑囚にも服用が認められたところで、彼には既に死刑が執行されている。

 死刑と鑑定、それに精神衛生と無差別殺人の話がでてきたところで、ぼくの見たもうひとりの死刑判決者について触れておきたい。

私が見た21の死刑判決 (文春新書)

青沼 陽一郎

文藝春秋

2009年7月20日 発売