脚立を手に持ったレスラーが、文春に殴り込み――? マスクをかぶった彼の名は、スーパー・ササダンゴ・マシン。DDTプロレスリングに所属しレスラーとしてリングに上がる傍ら、新潟県内の金型工場の代表取締役社長も務めている。近年はリング内だけにとどまらず、バラエティ番組『水曜日のダウンタウン』(TBS系)や『八千代コースター』(NST系)などにも出演し、人気を博してきた。
傍目には順風満帆に見えるササダンゴ選手のキャリア。だが、元々は素顔で普通のプロレスラーとして活躍していた。しかし、実家にいる父が倒れて家業を継ぐことになり、一度は引退も経験している。まさに現在TBS系で放送中のドラマ『俺の家の話』のリアル版だ。そんな彼の半生は、どんなものだったのだろうか?(全2回の1回目/#2を読む)
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「東京に行けばなんとかなる」と思った高校時代
――ササダンゴ選手は大学から東京へ出てきています。地元である新潟から上京されたきっかけは何だったのですか?
ササダンゴ 実家が自営の工場だったので、ずっと子どもの頃から両親に「跡を継げ」という話をされて育ってきたんです。でも、跡を継がなきゃいけない法律はないじゃないですか。それで、とにかく大学進学を口実に東京にさえ行ってしまえば、あとは自由だろうと勝手に思っていたんです。当時はプロレスなんか全然見ていなくて、むしろ「ちょっとダサいもの」みたいに思っていて。
――そうなんですね。上京して入学された早稲田大学では、どんなことを?
ササダンゴ 映画とか映像系のエンタメが好きだったので、シネマ研究会というサークルに入っていました。そこでひたすら300本とか500本とか、ノルマで映画を見せ続けられて。おかげでもう今、映画嫌いになりましたもん(笑)。ただ、そもそもあまり大学に真面目に通っていなかったので、単位が足りなくなってしまって。4年生の時に卒業見込みがもらえなかったんですよ。結果的にそのまま2年も留年して、6年たった時点で「あと2年通っても単位がとり切れないので辞めてください」って大学側に言われてしまって。人としてはちょっと…ですよね(笑)。
――そこからなぜプロレスの世界に…なかなかつながりもなさそうですが?
ササダンゴ 大学生になって、テレビでプロレスを見たらようやくちょっと面白さを感じたんです。ちょうど新日本プロレスのマットに大仁田厚が上がっていた99年とかですね。こっちはスポーツ中継だと思って観ているわけですよ。でも試合後、大仁田さんが泣きながらアナウンサーのことを張り手して、2人で泣いているんですよ。「え、これなんなんだ」って思って(笑)。興味を持ちましたね。
大仁田さんを観ていて、実力以上にパッションというか…熱量の力でここまで来られるんだなって驚いたんですよね。当時の僕のようなプロレスを知らない人たちの心まで引き付けてきた。そこで、プロレスの世界の扉をノックすると、「待ってました」とばかりに映画サークルにも隠れプロレスファンがいたんです。それでどんどんいろんなことを教えてもらって、のめりこんでいきました。