映像ディレクターになり、新興のプロレス団体DDTへ
――でも、その頃はまだ、直接的にプロレスとの接点はないんですよね。まだ1ファンの立場というか。
ササダンゴ ようやくプロレスを好きになったんだけど、どっちかというと映像なりで「物を作る側」にいきたいっていう気持ちが強かったんです。ちょうどそんなときに映画サークルの先輩から、声がかかって。
当時はスカパーができた頃で、何百というチャンネルが新しく生まれ始めた時だった。それで、チャンネル数が増えたことで、結果的に「流すものが足りない!」となっていたんです。先輩たちはエンタメ系のチャンネルでセクシーな女性の映像を流す番組の手伝いをやっていたんですけど、規制があって昼間はそういう映像が流せない。そこで、その時間帯に流す番組を撮りに行くようになったんです。
――まずは映像ディレクターとして仕事を始めたのですね。
ササダンゴ そうですね。それである時、先輩から「プロレス好きだったら、DDTっていう新興のプロレス団体があるから、それでなにか映像作ってみなよ」と言われたんです。それが2000年のことですね。当時のDDTは高木三四郎(※現在はDDTプロレスリングを傘下に持つ株式会社CyberFightの代表取締役社長)さんがメインを張っていたんですけど、アマレスでオリンピックとか、華やかな経歴があるわけでもない。ある意味、大仁田厚より亜流だったんですよ。でも、エンタメ色が強くて、技や強さで勝負していないプロレスの感じが良かった。それこそ最初に大仁田さんを見た時に思った、映画でもスポーツでもない「何か」みたいなものがあったんです。
プロレスラーデビューと新潟への帰郷
――しかし映像を作る側だったのに、そこからなぜレスラーに…?
ササダンゴ DDTに「アイアンマンヘビーメタル級王座」というチャンピオンベルトがあって。このベルト争奪戦のルールは、レフェリーさえいれば24時間いつでもどこでも、フォールを取られたら、そこでベルトが移動するんです。例えばインタビューを受けているレスラーに、大道具の脚立が倒れてきて、そのまま脚立が覆いかぶさっていたら、脚立がチャンピオンになるのではないか。そんなアイディアを高木さんが出して、「それ、やりましょうよ」ってなったんです(笑)。
ところが、意外とレスラーってそういうことやってくれない。「脚立に3カウントされるなんてできない」って言うんです。こっちは「絶対面白いのにな」と思っているのに。でも高木さんが言うと、「わかりました」って言ってやるんですよね。結局、レスラーってレスラーのいうことしか聞かない。だったらレスラーやろうかと。それがきっかけです。
――結局、ご実家の家業は継がなくても大丈夫だったのですか?
ササダンゴ 24歳くらいの時ですかね、大学6年も行ったのに「卒業できない」となった時に父親がスーツ着て東京まで来たんです。「プロレスの仕事がしたいのはわかる。でも、さすがに新潟に帰ってこい」みたいなことを言われましたね。どういうツテをたどってくれたのか分からないですけど、僕が映像制作をやりたいのを汲んで「映画の配給会社のクチがあるから」みたいな話を出してきたんです。すごく悩んだけどその時は「DDTがあるからやらないよ」って断りました。