でも2010年、32歳になった頃に父親が倒れてしまったんです。そうしたら、母親とか叔父からも「帰ってきてくれないか」と言われて。それで「もう一度、父親と話だけしてみるよ」って病院に行ってみたんです。また「帰って来いって言われるだろうな…」と思ったら、今度は「みんな新潟に帰って来いと言っているけれど、いま一緒にやっている仲間を大事にしろ」みたいなことを言われたんです。
実家を無視してプロレスを続けるのは「なんかおかしい」と
――かつては、「帰ってこないか」と言っていたのに…。
ササダンゴ そうなんです。そこで父が「経営っていうのは、なんだと思う?」って聞いてきたんです。「わからない」って言ったら、「続けることなんだ」と。経営というのは、会社を続けることが本質なんだと言ったんです。だからお前も、軌道に乗ってきたんだったらDDTを続けろ、と。
実家の坂井精機という会社は、70年近く続いてきた企業なんです。父は大学出てからずっとその仕事をやってきて、会社を大きくしていった。でも当時はリーマンショックの影響で、会社の売上が半減していたんですよ。もう大赤字で、今思えば父も心が折れていたんだと思います。そこでふと「あれ、このままだと会社はどうなるんだろう?」と思ったんです。父のキャリアの最後が、会社をたたむことだったら――それはかわいそうだなと、初めてその時に思って。これまでずっと「続けること」を考えてやってきた人のキャリアの最後に会社をたたませたら、それは最悪だよなと感じたんです。父からそのバトンを受け取るところまではやらなきゃダメだなと思ったんですよね。
――ただ、その当時あった仕事を辞めることは簡単には決断できないですよね。
ササダンゴ そうですね。でもプロレスって、リングに上がる人の人生とか生き方を全部さらけ出すことだと思うんです。それなのに、自分の中のリアルな実家の話を無視して続けるのはなんかおかしいなって思って。もちろん周りは「なんでやめるの」って言うんですよ。DDTも軌道に乗って大きくなってきていたし、なんで今なんだ、と。ただ、高木さんだけは「いいんじゃない」って言ってくれましたね。不思議と何かわかってくれたのかもしれません。
――引退ではなく、休業を選ばなかったのには理由があったのですか。
ササダンゴ 工場経営もプロレスも、どっちもそういう中途半端が通用する世界じゃないかなって思ったんです。ちゃんと引退して、「東京のヤクザな稼業から縁を切りました」って言っておかないと、地元に戻ってもダメだろうみたいなのがありましたね。人って不思議なもので、ちょうどそのタイミングで子どもができて。自分だけじゃなくて奥さんと子どもがセットで地元に帰ってくることで、非常に家族の受け入れ態勢が柔軟になりました(笑)。そういう縁もあったと思います。