貧困と原家族の崩壊

 このような若いカップルは、日本中にたくさんいるに違いない。私はこの夫婦を描写しながら、ダルデンヌ兄弟(ジャン・ピエール&リュック・ダルデンヌ)が監督した『ある子供』(2005年)という映画を思い出していた。その映画も、貧困と原家族の崩壊の中で子どもを育てる若い夫婦像を描いていた。国は変われども、先進国における最貧困層の若者たちはなんとよく似ていることだろう。

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 私たちのカウンセリングセンターを訪れる人たちは、一定程度の経済力を有していると思われるので、このような事例に出会うことは少ないが、公的な援助機関では、珍しくない。特徴は、DVも虐待も渾然一体となっていること、不登校や引きこもり、薬物問題、知的障害などの問題が山盛りになっていることなどだ。さらに、家族の中の誰もが「困った」と感じていないことだ。困らなければ問題として浮上することもなく、この事例のように、もっとも弱く無力な存在が殺されるまで放置されることになる。家族という不可視な空間だからこそ、暴力や性をめぐるルールはまったく無視される。

「親の愛」という神話

 もう一つの理由について述べよう。

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 幼い子どもが殺されるという事件は、しばしば世論を喚起する。世界の明晰性を保証するマスコミが加害者の悪・罪を際立たせるのだ。これほどわかりやすい善悪の判断はない。だから、子どもの虐待を防ぐことに反対する人はいない。

 しかし、このような善悪の判断ですら、日本では1990年代を迎えるまで、大きな壁に阻まれて不可能だったことは強調しなければならない。その壁とは、「親の愛」という神話である。たとえば、『巨人の星』というマンガは親子愛をテーマとしているように思えるが、星一徹の過酷なまでの息子飛雄馬に対する仕打ちは、虐待と読みとることもできる。

 加害者である父親は、「しつけのつもり」だという。それは嘘ではない。世の親たちが、どれほどしつけという名のもとに自らのうっぷんをはらし、子どもに怒りをぶつけているだろう。「親が子どもを殺したり憎んだりするはずがない」「なぜなら、どのような子どもであっても、実の親は子どもをかわいいと思い、愛情を注ぐものだから」という神話によって、そのような親の放埒な行為は不可視にされてきたのだ。親であることの強大な権力性は、この神話によって担保されてきた。子どもの立場に立てばどのように受け止められるか?という疑問すら発生する余地は残されていなかった。