岩手県釜石市に住む友人と連絡が取れたのは、震災から1週間ほどが過ぎた時だった。この時点ではまだ東日本大震災という名称はなく、東北太平洋沖地震と呼ばれていた。

 釜石市といえば津波で甚大な被害を受けたが、友人は内陸部に住んでいたため、幸いにも津波の被害は免れたという。しかし、電気やガス水道は止まったままで、食料も調達できない。配布されるオニギリやパンだけが頼りだが、「早く温かい物が食べたい」と話した。私は「じゃあ、何か温かい物を持って行くよ」と言ったが、友人は冗談だと思っていた。(全2回の1回目/後編に続く

民家に突き刺さった乗用車(岩手県釜石市、2011年3月19日撮影)

大量のインスタント麺を持って被災地へ

 当時、東北の公共交通機関はほとんどが止まったままで、高速道路も通行止めになっていた。ガソリンが不足し、関東以北ではほぼ手に入らなかった。こんな状況で、来られるはずがないと思ったのだろう。

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 だが電話を切った翌日から、私は準備を始めた。次の週末は、幸いにも3連休だ。3日間あれば、私が住んでいる岐阜から岩手まで、行って帰ってこられるだろう。

 インスタント麺やペットボトルの水は、東海地区でも不足していて、何軒もスーパーをハシゴして、なんとか130食分ほどを確保できた。それを温めるためのカセットコンロと鍋、その他にも生活用品や保存食、灯油などを車に積める限り詰め込み、私は自宅を出発した。震災の翌週、3月18日のことだった。

「沿岸部の人たちに届けてほしい」

 通行止めのため新潟で高速道路を下ろされ、下道で秋田まで北上した。さらに下道で本州を横断し、太平洋側へと向かった。釜石市に着いたのは、翌19日早朝だった。早速、友人を訪ねると、とてもビックリしていた。そして、意外な展開を迎えることになった。

「来てくれたことは本当に嬉しいが、物資は受け取れない」と受け取りを拒否されたのだ。

津波で破壊されてしまった線路(岩手県陸前高田市、2011年3月19日撮影)

 温かい物を食べたいと言っていたにも関わらず、なぜなのかと尋ねた。――沿岸部では津波の被害が甚大で、家を失って自分なんかと比べ物にならないぐらい大変な思いをしている人がたくさんいる。幸いにもここでは食料は配られているし、住む場所もある。本当なら自分で沿岸部に物資を持って行きたいが、ガソリンが無くて行くこともできない……。

「お前なら持って行けるだろう。沿岸部の人たちに届けてほしい」