避難所で出会ったボランティア
石巻市に着いた頃には、すっかり夜になっていた。ここでも避難所にお邪魔したが、やはり物資で溢れていた。夜になって落ち着いていたこともあり、運営しているボランティアの方と少し話し込んだ。「テレビであれが足りない、これが足りないと放送されると、さばききれない大量の物資が送られてくる。物はあるけど、本当に必要な人には行き届いていないのではないか」
ボランティアの方は、埼玉から来たという。当時、福島第一原発がメルトダウンしたとか、するかもという時だった。「このタイミングで、よく来れましたね」と聞くと「片道切符も覚悟して来たよ。まあ、帰りのガソリンが無いから、どっちにしてもしばらくは帰れないけどね」と笑った。
1995年、阪神淡路大震災の翌日、私は大阪市内の高校で授業を受けていた。目の前の病院には、ひっきりなしにヘリが発着し、負傷者が運ばれてくる。自衛隊や消防のヘリだけではなく、報道のヘリまでもが、負傷者を搬送していた。
ここからわずか数十キロ、自転車でも行ける場所で、まだ多くの人が瓦礫の下敷きになっている。大規模な火災も発生し、下敷きになった人々を飲み込みつつあった。こんな時に授業を受けている場合なのか、机の前に座りながら、ずっと自問自答していた。それは、16年が経った東日本大震災の当時でも、26年が経った現在でも、ずっと続いている。
被災地の夜は、闇に包まれていた
石巻市の避難所を出て少し走っていると、乗用車が炎上しているのを目撃した。空き地に置かれていた車から炎が噴出している。先に現場にいた自衛隊員に声をかけると、既に消防に通報したとのこと。
数分後に消防が到着し放水が始まると、すぐに火は収まった。どうやら、津波によって被災し、放置されていた車から出火したようだった。落ち着かない被災地にあって、ますます混沌とした雰囲気を感じる出来事になった。
鎮火を見届けた後、車を停めて仮眠しようとしたが、なかなか眠れなかった。岐阜から夜通し運転し、被災地を歩き回って非常に疲れていたはずなのだが、興奮していたのだろう。停電して真っ暗な街のなか、瓦礫の山に囲まれて、しばらく目を閉じていた。とても心細くなるが、多くの人はもっと不安な気持ちで、幾つもの夜を過ごしてきたのだろう。被災地の夜は、闇に包まれていた。
撮影=鹿取茂雄
(後編に続く)
その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。