沿岸部に広がっていた光景は……
そんな思いを聞いたら、行くしかなかった。早速、釜石市の沿岸部に向かった。ガソリンが不足して一般車両がほとんど走っていなかったためか、何の規制もなく、あっさりと沿岸部に到着した。
当時、人命救助のために、まずは瓦礫で埋まった道路を開ける“道路啓開”が行われていた。国土交通省、自衛隊、警察、県や自治体、地元の建設会社が一丸となって、1秒でも早く道路を切り開くことに全力を注いだ。その結果、震災翌日には被災地に通じる11ものルートが確保され、多くの緊急車両が救援に向かった。私が訪れた19日の時点では15ルートが開通、沿岸被災地を南北に結ぶルートもほぼ通行可能となり、一般車にも開放されていた。
釜石の沿岸部に入ると、呆然とするしかなかった。私は高校生の頃、大阪府池田市に住んでいて、阪神淡路大震災で震度6強を経験した。地震当日に兵庫県芦屋市を訪れ、倒壊する家屋やマンション、家が燃えていても消防車が来ない状況を、身をもって経験していた。その後、中越地震など多くの災害被災地も実際に見てきた。しかし、目の前の光景は、それらとは全く異なっていた。
市街地で声をかけてきた初老の男性
津波に襲われた街は、破壊の限りを尽くされていた。家や銀行、商業施設、そして幼稚園までもが、瓦礫に埋まっていた。多くの車が流され、道路に横たわったり、積み重なったり、民家に突き刺さったりしている。その中には、消防車や救急車の姿もあった。
車を降りて最初に感じたのは、臭いだ。これまでに嗅いだことがない強烈な臭いが漂っていた。この臭いは、その後訪れる被災地と共通していて、帰宅しても数日間は体からとれなかった。大量に打ち上げられた魚が腐敗した臭いと、船の燃料である重油の臭いが入り混じったもののようだ。
かつての市街地を歩いていると、初老の男性から声をかけられた。私はカメラを持っていたので、それを咎められるのかと思ったが、違っていた。――こんなことになって、記録しようにもカメラも無い。代わりにたくさん記録してほしい。そして、遠く離れた地域の人たちにも、伝えてほしい……。