私は正直、被災地にカメラを向けることに躊躇していたが、最初にこの男性に声をかけて頂いたことで、救われた気がした。もちろん平常心でシャッターを押すことなどできないが、可能な限り被害を記録しようと思った。
親子連れからの“意外なお願いごと”
その後、持ってきた物資を渡そうと、親子連れに声をかけた。ご自宅の近くまで伺ったが、やはり受け取れないと断られた。多くの人が身を寄せている避難所に持って行ってほしいと言うのだ。
そしてなぜか、ご近所の外国人に石油ストーブの使い方を教えてあげてほしいと頼まれた。私が作業着に長靴という格好だったためだろう。この格好で災害現場を歩いていると声をかけられ、色々なことをよく頼まれる。その後、外国人のお宅にお邪魔し、昔ながらの電気を使わない石油ストーブの操作手順を実演して伝えた。
肝心の物資の受け渡しは、その後も難航した。避難所にお邪魔したが、どこも物資は溢れていたのだ。さらに、私が持参したのは個人に渡そうと思っていた袋入りのインスタント麺で、かき集めたため銘柄も茹で時間もバラバラだった。これでは確かに受け取りづらいだろう。
沿岸部を南下していく
釜石市から沿岸部を南下して大船渡市、陸前高田市、そこから宮城県に入って、火災で大部分が焼失した気仙沼市、そして南三陸町と巡った。
街が壊滅していると繰り返し報じられていたが、その言葉を実感することは難しかった。実際に現地を訪れると、圧倒的な被害に震えた。その瞬間まで普通に暮らしていた街が瓦礫の山と化し、あるいは全てが流されて更地になっていた。
陸前高田市では強風が吹き荒れ、砂煙が発生していた。津波によって持ち込まれた土砂が乾燥し、風で吹き飛ばされるのだ。小石程度のものまで飛んできて、当たると痛かった。そんな砂煙の中、自衛隊と消防団、地元の建設会社が行方不明者の捜索を行っていた。避難所になっている学校の校庭では、仮設住宅の建設が既に始まっていた。