南下して南相馬市に入ると、原発事故に伴う制限区域にかかるため、これ以上進めなくなった。海に近づくと、水没して通れない道路もたくさんあった。水没地点でUターンしようとしていると、そこへ1台の車がやってきた。この場に似つかわしくない、スーツ姿の男性が乗っていた。「ここに住んでいた同僚を探しに来たんですが……」。男性が指を差した方向には、何もなかった。家が跡形もなく流されていた。
「私の妻を知りませんか?」
相馬市や南相馬市の被災地では、先週訪れた岩手県や宮城県と比べて、救助隊の数が圧倒的に少なかった。自衛隊と地元の消防団数人が、瓦礫の中に要救助者を探していた。
南相馬市で道の駅に立ち寄った際、地元の方に話しかけられた。「福島は原発のことばかりで、津波のことはちっとも報道してくれない」
福島県も、岩手宮城と同様、地震と津波によって甚大な被害を受けている。しかし、確かに報道は原発事故のことばかりだった。地元の方は、そうした報道も、他県に比べて救援が遅れている原因であると感じていたようだ。
新地町、山元町を経て、先週も訪れた南三陸町に入った。車を降りて歩いていると、30代くらいの男性から話しかけられた。無精ひげを生やした男性は「私の妻を知りませんか?」と言う。私はもちろん、その男性のことも、奥さんのことも全く知らない。年齢服装等の特徴を聞こうとしたが、男性はこう続けた。「腕一本だけでもいいんです。どうしても見つけたいので、見かけたら教えて下さい」。私は胸がいっぱいになってしまい、車に戻った。
まだ人命検索も始まっていなかった町
女川町は、異質の空気に包まれていた。中高層の建物が横倒しになり、コンクリートがメチャクチャに破壊されていた。また、破壊された建物や流された車には、救助隊が検索済の証として、○印や×印等のマーキングを残す。これまで、どの被災地にも、そうしたマーキングが残されていた。それが、この女川町では一切なかったのだ。
地元のおじさんに話を聞くと、まさに今日、やっと道路が開通し、人命検索は明日から実施される予定だという。地震発生当日は、多くの人が高台の病院に避難したが、津波はその病院をも飲み込んでしまった。おじさんは鉄塔によじ登っていたが、津波はどんどん迫ってくる。ついに鉄塔のてっぺんまで登ったが足まで水がきて、必死にしがみついて難を逃れたという。
その後の2週間、物資が届かず自転車で何キロも走り、食パンをもらいに行った。家族みんなでちぎって食べていたと、話してくれた。
おじさんと別れると、すっかり暗くなっていた。翌日は仕事なので、岐阜に帰らなければならない。車に戻ると、女性に呼び止められた。「あの建物から煙が上がっているので、見てきてほしい」