男性は、石巻市街の避難所まで行けば多くの物資があることをご存知のようで、「ガソリンがあると本当に助かる。涙が出るね」と言ってくれた。
ガソリン不足によって外部からの人の流れが途絶え、現地の混乱が抑えられている一方で、深刻な物資不足も生じていた。関東以北では入手が非常に困難だったガソリンだが、私が住む岐阜県では普通に給油することができた。電気もガスもきているし、概ね以前と同じように暮らせている。それなのに、同じ日本で、食事すらままならず、暖を取る燃料もなく、何日間も過ごしている多くの人たちがいる。この現実が、突き刺さるように痛かった。
自衛隊員が上げた「発見!」の声
帰路につくため、東松島市まで向かった。特に被害の大きかった野蒜(のびる)地区では、壊された街の残骸が川に浮かんでおり、自衛隊員がボートで近づいたり、クレーンで地上に引き揚げるなどして、要救助者の確認をしていた。その先では、流された電車が民家の軒先に迫っていた。
川の近くを歩いていた時、すぐ隣にいた自衛隊員が「発見!」と大きな声を上げた。驚いて自衛隊員の足元を見ると、砂の中に人が横たわっていた。それは、ひと目でご遺体と呼ばなければならない状態だった。私はすぐ近くにいたのに、全く気付かなかった。まさか、ガードレールの下の砂の中に人が埋もれているなど、想像すらできなかったためだ。捜索活動の難しさを感じながら、手を合わせて黙祷し、現場を離れた。
翌週も東北に向かっていた
そこから14時間かけて岐阜に帰ったが、次の週末、私は再び東北に向かっていた。前回訪問した後、見聞きした内容をネットで発信すると、複数のボランティア団体から連絡をもらった。物資を届けたいが、どこに届けるのが有効か分からないので教えてほしいという内容だった。
私一人が現地に持って行ける物などたかが知れているが、情報提供であれば少しは役に立てるかもしれない。そう思い、先週訪れていなかった福島県の沿岸部に向かった。
3月26日の朝、福島県相馬市に着いた。沿岸部の津波の被害は甚大で、木造家屋が根こそぎ流され、市街地は更地のようになっていた。田畑には水が溜まったままで、海と陸との区別がつかない。流された家々は、郊外の田んぼに積み重なっていた。