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「もう見捨てられたのかと思った」

 建物は鉄筋コンクリートだが、津波でボロボロになっていた。大量の瓦礫があるので火災になったら大変だし、誰かが助けを求めて狼煙を上げている可能性もある。車からヘルメットと懐中電灯を取り出すと、建物内に入った。床にはヘドロが堆積し、天井からは電線のようなものが大量に垂れ下がっている。被災した建物内に入るのははじめてで、瓦礫も邪魔で、思うように進めなかった。

 自然と「誰かいませんかー!」と声が出ていた。2階に上がり屋外に出ると、瓦礫が燻っている形跡を発見し、消火した。車に戻ってくると、自分が全身泥まみれになっていることに気付いた。急に、どっと疲れた。

女川町ではまだ人命検索も始まっていなかった(宮城県女川町、2011年3月26日撮影)

 帰りの長い道中、女川町で聞いたおじさんの言葉を思い出していた。

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「もう日本から見捨てられたのかと思った」

 地震発生から2週間、既に仮設住宅の建設がはじまっている地域もあれば、人命検索がまだ行われていない地域もあった。被災地から離れた地域では、いつもと変わらない生活を送っている。それが悪いという訳では決してない。しかし、見捨てられたと感じたおじさんの言葉は、深く心に残った。

第一原発周辺では、今も時が止まったまま

 震災から3か月後、物資を届けた避難所からお礼の葉書が届いた。自己満足な行為だと自覚しているが、単純に嬉しかった。その後もほぼ1年おきに東北を訪れ、なるべく現地の様子を見るようにしている。既に新しい街が出来上がっている地域もあれば、当時から全く変わっていない地域もある。特に福島県の第一原発周辺では、今も時が止まったままだ。

 国道沿いには、チェーンの飲食店やコンビニ、カーディーラーやホームセンターが建ち並ぶ。どこにでもある風景だが、その全てが廃墟と化している。ある日突然、日常が奪われて10年が過ぎた。先が見通せない10年は、あまりにも長かったに違いない。そして、それは今も続いている。

震災から2年後の南相馬市では、壊れた車両がまだ放置されていた(福島県南相馬市、2013年5月4日撮影)

 地震などの自然災害は、避けることが出来ない。しかし、被害を抑えることはできる。人命を守るという最も重要な部分において、堤防や避難タワーといったハードの整備と同時に、人々の心がけが何よりも大切だと思っている。いくら避難タワーを造ったところで、実際に避難しなければ意味がない。

 これまで、地震や豪雨、大雪など、日本は多くの災害を経験してきた。そして、多大な犠牲と引き換えに、多くの教訓が得られた。あの時の悲しみを決して忘れることなく、いざという時、自分や大切な人の命を守る行動ができるだろうか。人の記憶や教訓は、月日の経過によって必ず色褪せる。しかし、色褪せてしまったとしても、いつでも塗り直すことができる。新たな災害によってではなく、10年という節目がその機会になることを願っている。

「原子力明るい未来のエネルギー」の看板(福島県双葉町、2013年5月4日撮影)
立入禁止のままのコンビニ(福島県富岡町、2015年3月22日撮影)
震災から7年目。国道沿いの店は廃墟と化しつつあった(福島県双葉町、2018年8月15日撮影)

その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。