2011年の東日本大震災では、自衛隊の活動にも大きな注目が集まりました。発生当日から現地で救援活動を始め、同時に原発対応にも当たることになった自衛隊員たち。そのトップとして、かつてない災害派遣を指揮したのが、折木良一統合幕僚長(当時)です。
あのとき、なぜ自衛隊は迅速に動けたのか。また、米軍や民主党政権とはどんなやり取りがあったのか――。近現代史研究家の辻田真佐憲さんが聞きました。(全2回の1回目/後編に続く)
◆ ◆ ◆
阪神・淡路大震災の教訓が活きた
――3.11から、今年でちょうど10年が経ちます。今から振り返ると、過去の様々な災害と比べて、東日本大震災ではすぐ10万人態勢を整えるなど、自衛隊の初動がかなり早かった印象があります。それができた理由は、何だったとお考えですか。
折木 自衛隊はこれまで災害派遣を何度もおこなってきましたが、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災のときには、災害派遣要請が遅かったとか、自衛隊の出動が遅かったとか、そういう話もありました。それを機に、災害が起きたらすぐに出るという、即応体制の訓練をやって、自治体との連携もとれるようになってきました。そうした改善が活きたという面はあると思います。
また、東日本大震災のときは震災そのものが大きかったので、「これは自衛隊が出なきゃいけない」というのは、組織としても、それから各部隊としても、直感的に感じたわけです。だから、そういう面でも動きが早かったのかな、と。当日で8000人くらい、それから約1週間で後方支援も含めて10万人態勢を作り上げたんですが、平成16年(2004年)の中越地震などと比べると、かなりのスピードアップができたと思っています。
――被災地では自衛隊員が食事を優先的に被災者へ渡して、自分たちは冷たい缶詰を食べていた、などという話がよく語られていました。
国民に理解される、信頼される存在へ
折木 そうですね。そもそも自衛隊は、社会的に認められていないところから始まって、そこから国民に理解される、信頼される存在にならないといけない、という意識がずっとあったんです。だからこそ創隊の時代から、災害派遣の場面では真摯に、真剣に対応をしてきました。その姿が徐々に認められてきたのです。
なので、東日本大震災だけが特別だったわけではなくて、それまでの災害派遣やそれに伴う教育訓練、それから海外での活動などで培われてきたノウハウが、究極的に示されたのが東日本大震災だった、と捉えています。派遣期間も長くて、原発に関して言えば、年末の12月26日くらいまで災害派遣をしていたので、自衛隊の姿がより皆さんの目に見えた、という部分もあったと思います。
――“缶詰の話”がある種美談として語られる一方で、折木さんは災害時こそ一人二役ではなく、二人一役であるべきではないか……つまり、こういうときこそきちんと休みをとらせた方がいいとも仰っていますね。ただ、そのためには我々や、もしかしたら自衛隊自身の意識も変えていく必要があるのかな、と思うのですが、その点はいかがでしょうか。