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2021/03/11

「3月いっぱいはちょっときつかった」

折木 やはり軍隊というか、こういう武力集団というのは、任務を一つ達成してもそれで終わりではなくて、次に備えて戦力を貯めて、維持していかなければならないんです。そういう面で、一人二役をずっとこなしていくことには限界があるので、しっかり休みをとることは大事だと思っています。例えば東日本大震災では、遺体捜索や人命救助が一段落ついた3月末くらいからは、戦力回復センターをつくって人員を交代させていきました。

 ただ、日本人は真面目なんですよね。皆さんもそうだと思いますが、「休め」と言っても休まないんです。とくに指揮官は責任感や使命感がものすごく強いので、なおさら休まない。でも、それでは任務が持続できないんです。なので、民間企業もそうだとは思いますが、そうしたところで休ませるのも、上にいる者の仕事の一つだと考えています。

――折木さんは当時、自衛隊のトップにいらっしゃったわけですが、ご自身は休みをとれましたか。

聞き手・辻田真佐憲さん

折木 3月いっぱいはちょっときつかったですね。それでも、河野君(河野克俊前統合幕僚長。当時は統合幕僚副長)と3月末くらいから夜は交代したりして、休みはとっていました。

“米軍の被災地入り”に心配もあった

――最初に被災地に入られたのは3月14日、松島基地に北澤俊美防衛大臣と行かれたときでしょうか。

折木 ええ。

――そのときの印象はいかがでしたか。

折木 大型ヘリで移動したんですが、道中で下を見たときに、かなりの被害状況が目に入ってきまして。映像では見ていましたが、実際に現地で目にしますと、被災地の人たちがどんなに激しい津波に襲われたのか、その悲惨さと言いますか……それを感じました。松島基地では戦闘機が建屋に突っ込んでいたので、その姿を見たときも「あっ、これは……」と。

津波に流され、松島基地内の建物に突っ込んだ戦闘機(2011年3月14日撮影) ©時事通信社

――震災時には、アメリカ軍の動きに大変感銘を受けたとも仰っていますね。いわゆる「トモダチ作戦」ですが、米軍は日本人のことをよくわかって動いてくれた、と。これは、具体的にはどういうことだったんでしょうか。

折木 米軍に関しては当初、実は心配していたんです。こういう災害のときに、被災者の中に入っていって、彼らが国民とうまく関われるのか。文化も慣習も宗教も違うなかで、現地での様々な調整を、地元の人たちと本当にできるのか、と。だから、最初は自衛隊が間に入ったほうが良いんじゃないか、などとも考えていました。

 ただ、いざやってみると、米軍は日本人目線で、被災者目線で活動してくれたんですね。沖縄や座間にいるなかで、日本人のやり方や生活を理解したのでしょう。当時の写真が記録として今もたくさん残っていますけども、それを見ると子供もお年寄りも、親近感のある目で米軍を見ている。言葉が通じないので、なかには恐怖心を持つ人がいてもおかしくないと思うんですが、お互いの気持ちが通じ合っているな、と感じられる写真がほとんどでした。