判決の日は「染めたツンツン髪」で法廷に登場
Aさんの父が語る。
「辻氏は経営者として成功しているみたいですね。時々テレビに出ているのは知っていましたが、彼を見ると当時の怒りと悲しみを思い出してしまうので、極力見ないように避けていました。でも、ここまで有名だとは話題になるまで知りませんでした。事故が起きた日から片時も彼のことを忘れたことはありません」
事故が起きた2011年の9月11日、Aさん一家の生活は一変した。
「最初は事故現場から近い救急センターに搬送されたのですが、脳へのダメージが大きかったのですぐに岡山の脳損傷被害者専門の病院に移されました。なんとか一命はとりとめましたが、息子が身動きひとつ取れなくなってしまったという辛い現実に耐えられず、何度息子と一緒に死のうと思ったかわかりません」(Aさんの母)
一家が住む大阪から岡山は遠く、母だけがAさんの傍に残る形で岡山に一人暮らし、父とAさんの兄は大阪に残るバラバラの生活が始まった。交通事故の刑事裁判は、その慣れない介護生活が続く中で始まった。2012年10月9日に大阪地裁岸和田支部で、辻氏に対して禁固2年、執行猶予3年という判決が下された。その日の辻氏の様子を夫妻はよく覚えているという。
「法廷に立った彼は、染めた髪の毛を整髪料で固めてツンツンに整えていたんです。なんでこんなに余裕あるんだろうと驚きました。
「一生にわたって、被害者の方とご家族に誠心誠意対応します」
法廷には、当時岡山で治療していた息子も来ていました。寝たきりの状態で、意識があるかはわからなかったのですが……。それなのに辻さんは、判決が出て退廷するとき、黙ってそのまま出て行こうとしたんです。だから私は『何か言うことないの』って呼び止めたんです。すると彼は私たち夫婦に向かって謝ったので『そうじゃないでしょ、この子に謝るんでしょ』と。そうして初めて息子に頭を下げたんです」(Aさんの母)
夫妻の記憶では「彼が謝ったのは、この時と待合室で会った時の2回だけ」だという。
「事故直後に息子が手術室で生死を彷徨っているとき、私たちが待合室で無事を祈っているところへ辻さんと親御さんが後から入ってきました。最初、彼は何か言うでもなくぼーっと立っていた。親族の1人が耐えられず『お前、黙ってるだけか、何も言えないのか、謝るって知らないのか』と怒鳴ってしまい、すると親御さんが無理やり彼の頭を下げたんです」(Aさんの父)
刑事裁判の供述調書には、辻氏が被告人として次のように述べたと書かれている。
《この裁判が終わった後も、一生にわたって、被害者の方とご家族に対して誠心誠意対応します》