PCRという言葉が連日聞かれるようになってから1年が経つ。PCRの威力については前編で説明したが、その威力ゆえに時には落とし穴も……。週刊文春の人気連載「福岡ハカセのパンタレイパングロス」をまとめた新刊『迷走生活の方法』から、研究の現場で実際に起きたという「ありえないような笑い話」をお届けする。(全2回の2回目。前編を読む)
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DNA複製の原理を組み合わせただけなのに
画期的な遺伝子増幅技術、ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)が登場したとき、研究者はそのパワフルぶりに欣喜雀躍し、こぞってこの方法を使って実験を進めた。原理がシンプルかつ巨大な装置も不要なのがよかった。試験管の中で、加熱してDNAの2本鎖をほどく。ほどいてできた1本鎖DNAを鋳型に、もう1本のDNAをポリメラーゼという酵素で複製するとDNAは2倍に増える。これを繰り返せば、ポケットの中にはビスケットが~、の歌のように、研究対象のDNAがどんどん倍化され、増幅される。
PCRがすごかったのは、研究者なら誰でも知っているはずのDNA複製の原理を組み合わせただけなのに、キャリー・マリスが発案するまで誰も思いつかなかった、ということ。DNAが細胞内で合成されるときも、まずは2重らせんがほどけ、それぞれの鎖を鋳型に、互いに逆向きに複製が行われ、そのときプライマーと呼ばれる短い遺伝子断片が呼び水となってポリメラーゼ反応が起きることがわかっていて、そのとき生じる複製物はその日本人発見者の名をとって、岡崎フラグメントと名づけられていた(故・岡崎令治が発見した)。なので、PCRは岡崎博士が発案しても全然不思議ではなかったが、あとからやってきた風来坊、マリスがちゃっかり思いついて特許をとった。
実際、マリスは科学界随一の一発屋といってよく、70年代、80年代にはサーフィンやクスリをやり、職を転々としていた。ガールフレンドとドライブしている最中に、PCRのアイデアを思いつき、これひとつで最後はノーベル賞までとったのだ。その後、福岡ハカセはマリスと仲良くなり、彼の自伝(『マリス博士の奇想天外な人生』)まで訳したのだが、快活で実に面白い人物だった。