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十数銘柄ある「あおちゅう」ブランド

 青ヶ島の焼酎は「あおちゅう」というブランド名で、通の人たちに珍重されています。現在、十数銘柄の「あおちゅう」が販売されていますが、ブレンドの割合や熟成年数などは各銘柄で異なり、原料となるさつま芋と麦麹を別々に分けて蒸留しているものもあります。

青ヶ島のブランド焼酎 ©️大島淳之

 島で杜氏の資格を持っている人は10人。青ヶ島の人口は約170人で、日本で最も人口の少ない村です。人口比で見れば、杜氏率は大人のほぼ10人に1人で、これも日本一の比率でしょう。

 小さな島ですので、人々は各自の酒造場を持たず、一つの焼酎工場を共同で使用しています。酒造りは通常、男の世界ととらえられますが、青ヶ島では女性が家族のために焼酎造りに積極的に関わってきました。「奥山直子」「広江順子」など、杜氏を務めるお母さんやお祖母さんの名を冠したユニークな銘柄が、ここには数多くあります。

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 焼酎醸造の過程で一番の特徴が、先ほど森の中で見たオオタニワタリの扱い方です。炒った麦の上に一枚一枚オオタニワタリの葉っぱを重ねていくことが、昔からの伝統だそうです。オオタニワタリに生える特殊なカビを醸造に取り入れることで、南洋の森の香りという、絶妙な風味が加わるということでした。

「島流し」によって渡っていった焼酎技術

 実は伊豆諸島の焼酎と「島流し」には、密接な関係があります。幕末に薩摩の商人だった丹宗庄右衛門は、琉球を介した清(中国)との密貿易がばれて、八丈島に島流しとなりました。1853年のことです。当時の八丈島は米が貴重で、米で酒を造ることは禁じられていました。一方、幕府は伊豆諸島でさつま芋の栽培を推奨していたので、起業家精神に富んだ庄右衛門は、薩摩焼酎の技術を八丈島に伝えました。

青ヶ島の日の出 ©️大島淳之

 この時期、やはり八丈島に流されていた近藤富蔵が『八丈実記』という回顧録を残しています。『八丈実記』には八丈島と伊豆諸島や小笠原諸島の出来事が細かく記録され、今となっては貴重な史料です。富蔵は庄右衛門の焼酎を高く評価し、「農作家作ニ大益ヲ得タリ」と記しました。つまり、島民に大きな利益をもたらしたのです。

 島流しによって南国の焼酎技術が八丈島へ渡り、さらに青ヶ島では原生林にあるオオタニワタリを醸造プロセスに組み込むことで、独自の焼酎造りを確立したのです。

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