次に、仕事量が減らないなら人員を増やすという機動性も、公務員の場合には乏しい。確かに、残業代が問題視されたコロナ室は周辺部署からの「人狩り」によって増員したという噂が流れている。だが、コロナ室に人を送った部署はより少ない人数でそれまでの仕事量をこなさざるをえない。つまり、霞が関全体の仕事量が減らなければどこかにひずみが行く。しかし公務員の総数は厳密に管理され、それどころか「合理化」という名の減員を課されている。
仕事は減らない。人員は増えない。この二重苦を抱えたまま、残業だけを減らすことをきつく命じられたとする。そうすると、サービス残業の痕跡すら残さない「闇残業」によるしかない。さらに、リモートワークの環境は闇残業を可能にする。リモートであっても残業代を支払うのは当然の制度設計だが、実際には把握も監督も難しいため、うやむやになる可能性も高い。
だから、サービス残業をなくすという改革はスタートラインに過ぎないのだ。逆に、ここで満足して改革の手を止めれば、サービス残業よりもさらに不健全な闇残業が横行する可能性がある。サービス残業の改革は、業務改革とセットでなければならない。さらにいえば、報酬の基準としてのみならず、一種の評価の指標として労働時間を用いてきた仕組みそのものを変えていくことが、「働き方改革」ではないかと私は思う。
インプットを評価する家族型組織
中央官庁の官僚は、労働時間というインプットの総量によって評価されてきた。残業代方式は、同じ仕事をより非効率に遅くまで続けた方が給与の面で報われるという負のインセンティブが働くと批判される。
だが実際には、より速く仕事を終わらせた“デキる人”のところに次の仕事が降ってくる。そうして情報が1人の人間に集約され、それゆえに仕事もさらに集中するというスパイラルが、個人の評価をうなぎ上りに高めていく。
378時間残業した職員について、「非常に意欲があり、周りから頼られる存在で業務が集中しがちだった」と釈明する西村康稔経済再生相は、評価の高さと労働時間の長さが裏表であることを裏づける。要は、振られる仕事量の多さは各員の能力の証明であり、処理する業務量の多さは各部局の価値の証左でもあったのだ。