家族型への郷愁とアウトプット評価への変革
そう、家族型組織は、長時間労働をどちらかといえば肯定的に評価してきた。だから、霞が関で働き方改革を本気で実行するならば、このあり方こそがまさに変革の本丸になる。そうすると、労働時間というインプット評価の方式から、成果というアウトプットへと評価の指標を変更することが、今後の方向性だろう。
優秀な官僚が長時間働く傾向は確かにあった。だが、長時間働くから優秀な官僚だというわけでは、本来、決してないはずだ。日本銀行の40歳以上の職員の多くが年俸制となっていることを考えれば、中央官庁での年俸制の導入は困難だとしても不可能とはいえまい。
このような改革について、ホワイトカラーエグゼンプションが過労死を招くという批判は当然あるだろう。忠誠心を評価の対象とする家族型の残滓として、上司が職場に留まれば部下も帰れないという慣習が残っていたとする。そこで新卒からすべて残業代なしの年俸制に移行すれば、際限のないオーバーワークとなって若手官僚の肉体と精神を蝕みかねない。
要は、家族型というそれ自体完成した1つの制度のどこかをいじると、別のどこかにゆがみが生じるのだ。ならば、家族型という仕組みそのものを捨て去ってしまうしかない。だが、これが難しい。家族型組織というのが、いまだに我々の、少なくとも我々とその上の世代のノスタルジーを強く刺激する。そして、これは霞が関のみならず、私たち日本社会が向き合っていかねばならない大きな課題だろうと、私は思う。
外資系証券会社でトレーダーとして働く友人の職場を、休日にこっそりと見せてもらったことがある。複雑なグラフが並んだ画面を複数並べたクールな机。そこには鏡があった。
「そんなに自分の髪型、気になる?」
と茶化す私に、彼は笑顔を見せずに吐き捨てる。
「後ろを通る同僚がいるからさ」
私の頭は「?」でいっぱいにある。そりゃいるだろうけど、でも、だからなに?
「僕がさ、どんなデータを参照して、どういうポジションをとっているかがわかってしまったら、同僚に出し抜かれるかもしれないだろ。だから、同僚が背後に近づいてくるのを鏡で確認して、素早く画面を消せるようにしている」
頭で理解する。だが、私の心は彼の話についていけない。