若く勢いのある弁護士を引きつけたサラ金問題
この時、被害者の会の初代会長職を引き受けたのが、当時50代の男性Mだった。Mは、多重債務者としてサラ金からの厳しい取り立てを受け、親子四人で心中しようと夜の街をさ迷ったことがあった。空腹に耐えかねて一本のコーラを買い、公園の水で薄めて分け合って飲み、そのうまさから心中を思いとどまったという経験の持ち主である(江波戸 1984)。
余談だが、サラ金被害者の救済に奔走した弁護士の木村晋介は、上の内容とはやや異なるM会長の経験談を聞いて衝撃を受け、サラ金問題に関わるようになったと振り返っている(木村 1990)。こちらの木村弁護士は、椎名誠の自伝的小説『哀愁の町に霧が降るのだ』に登場する木村晋介、「怪しい探検隊」や「東日本何でもケトばす会(東ケト会)」のメンバーである。
この時期のサラ金問題は、メディアで盛んに報道されたこともあり、若く勢いのある弁護士を多数引きつけていた。後に日弁連会長となる宇都宮健児も、多重債務者に関わる案件を引き受けることで事務所独立の契機をつかんだ。北海道釧路市の今瞭美のように、地方に波及したサラ金問題の実態を鋭く告発し、武富士から「天敵」(中川 2006)と恐れられた弁護士もいた。皮肉にも、サラ金業界は、被害者を増やしすぎたがゆえに借金問題を扱う弁護士に安定した収入を与え、被害者運動を継続して支援することを可能にしたのである(上川 2012)。
被害者の会に対し、世間の目は冷たかった
話を被害者の会に戻そう。Mが会長職を引き受けることでようやく組織された被害者の会に対し、世間の目は冷たかった。多くの消費者団体は「借りたものを返さない方が悪い」と関心を示さず、一般からの寄付もごくわずかしか集まらなかった。登録会員は一年足らずの間に800名を超えたが、自身の問題が片付けば会に寄り付かなくなるか、サラ金に追い詰められて活動どころではなくなってしまった。逆境の中でもM会長はくじけず、「夫や妻、兄弟がサラ金禍にひそかにあえいでいるかもしれないんですよ。他人事じゃないんだ」と、熱心に活動に取り組んでいた。
被害者の会の運営に意欲を燃やすMは、自宅の電話番号を公開して相談者からの電話に連日対応し、優しい言葉をかけ続けた。しかし、会結成から3ヵ月が経つ頃、Mは心身に不調をきたしてしまった。「どの相談も暗く重く悲しいものであったから、その精神的苦しみから逃れられない」と言うのである。さらにその3ヵ月後、Mが被害者から預かった返済金約800万円の使い込みが発覚した。「酒を飲まずにはいられなかった」というのが、Mの釈明だった。