被害者の会は、横領したMを自首させることに決めたものの、この経緯が某新聞にすっぱ抜かれ、運動は一時苦境に陥った。精神的にも経済的にも深い傷を負った当事者たちが被害者運動に従事するのは、決して容易ではなかった。
それでも、1983年までに全国で21の被害者組織が結成され、運動は着実に全国へ広げられた。恐怖心や罪悪感を煽られた多重債務者たちが業者に毅然と立ち向かうには、法律的知識を身につけるだけでは不十分で、弁護士や被害者の会といった背後の「味方」が必要だった(大山 2002)。サラ金禍に苦しむ人びとの声は、有能な弁護士たちや自助グループの支援もあって、徐々に大きくなっていった。
破産件数の急増
追い込まれても返す金のない多重債務者が、自殺や夜逃げ以外の方法で問題を解決しようとすれば、最後に残された手段は自己破産である。その方法を確立したのが、被害者の会と、それを支援する弁護士たちだった。
1952年から70年代までの破産事件数は、おおよそ年間2000件前後で推移していた。しかし、1984年には2万6385件へと急増し、このうち貸金業関係の比率は、初めて数値の得られる85年には67.1%と、3分の2以上を占めた。
1983年6月18日付の『朝日新聞』朝刊は、「自殺、心中や夜逃げよりは、なけなしの財産を投げ出しても自己破産の宣告を受けた方が――。サラ金の返済に困り、ぎりぎりのがけっぷちに立たされて、裁判所に自ら破産を申し立てる人が急増」と報じている。貸金業規制法が制定される前後の時期から、多重債務によって破産を余儀なくされた人びとの存在が明らかになりつつあり、サラ金の引き起こした社会問題として大きな注目を集めていた。
こうした破産件数の増大は、多重債務者の深刻な状況を一面では反映していた。しかし、そこから債務者の悲惨な状況のみを読み取るのは正確ではない。破産件数の増大は、苦境にある多重債務者たちが、過剰な債務の支払いを回避するべく積極的に抵抗を試みたことの反映でもあった。