「サラ金」は、利息制限法で定められた金利を超過したグレーゾーン金利で貸し付けを行っており、借金返済に苦しむ膨大な数の被害者を生み出した。そうした借金苦に悩まされる人たちの窮状を解決すべく、結成されたのが「サラ金問題研究会」だ。サラ金苦に陥った被害者と、被害者を支援する弁護士とが開始した社会運動は、やがてサラ金に対する規制強化実現の大きな原動力となった。

 ここでは、東京大学大学院経済学研究科准教授の小島庸平氏が「サラ金」にまつわる約110年間の歴史を紐解いた一冊『サラ金の歴史』(中公新書)を引用。サラ金規制強化のきっかけになった社会運動のあらましを紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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「サラ金被害者の会」結成

「いくら苦しくても、死ぬのはやめてともに助け合い、サラ金地獄から抜け出そう」

 そう呼びかけて「サラ金被害者の会」(以下、「被害者の会」と略)が結成されたのは、1977年10月のことだった。組織づくりを主導したのは、同年5月に大阪で15名の若手弁護士が結成した「サラ金問題研究会」である。この研究会の目的は、サラ金に対する法規制を議論し、被害者の救済方法を検討することだった。サラ金苦に陥った被害者と、被害者を支援する弁護士とが起こした社会運動は、やがてサラ金に対する規制強化実現の大きな原動力となる。

 弁護士の木村達也の回想によると、被害者の会が結成された経緯は、次のようなものだった。

 1977年5月、サラ金苦の相談が増えていることに気づいた大阪の若手弁護士たちが、解決法を探るために「サラ金問題研究会」を結成した。同年6月にメディアで好意的に紹介されると、全国から相談が殺到する。中でも研究会の呼びかけ人だった木村は、相次ぐ取材や相談者への対応に忙殺された。見かねた先輩弁護士の中村康彦は、木村に「被害者の会」を組織するよう助言している。

 中村は、公害訴訟の分野で多くの経験を積んでおり、被害者を組織することの重要性を知る人物だった。さらに、森永ヒ素ミルク中毒事件で名を挙げた中坊公平も、1977年に大阪弁護士会の公害委員会から消費者保護委員会を独立させて委員長となり、78年には木村を同委員に選任した。1960年代後半以降、四大公害病や食品汚染問題が次々と訴訟に発展しており、そこで蓄積された弁護士たちの経験と組織が、サラ金問題でも活かされていた。そんな経緯もあって、サラ金問題は「第二の公害」とも呼ばれた。

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 中村の助言を受けた木村は、さっそく「被害者の会」の組織化に動き出した。しかし、日々返済に追われ、昼も夜も懸命に働いている人びとの中から、運動の核になってくれそうな候補者を探すのは難しかった。

借金返済に苦しむ仲間が結束

 ある夜、木村は、協力してくれそうな相談者たちを会議室に集め、被害者の会の必要性を説いた。しかし、彼らに「被害者」の意識は少なく、反応も発言もほとんどない。そこで、木村は自己紹介を兼ねて全員に厳しい取り立ての体験を話してもらうことにした。すると、次々に発言が続き、参加者の緊張感と警戒心が一気に薄れ、仲間意識が芽生えた。後に、木村は、「サラ金被害者は孤独と不安の中で悩み苦しんでも人に相談できず、一人耐え続けていたのだ。借金返済に苦しむ同じ仲間を見出して安心し、結束したのだ」と振り返っている。

 木村らの努力の結果、1977年10月24日に全国で初めて被害者の会が大阪で結成された。記者会見には新聞社やテレビ局の記者が数多く集まり、マスコミの「サラ金地獄」報道はさらに加熱していった。