「不当利得」とされたグレーゾーン金利が合法化
利息制限法と出資法の間のグレーゾーン金利については、最高裁が1968年に「不当利得」と判示していた。にもかかわらず、規制法案の検討過程では問題が蒸し返された。業界と与党がグレーゾーン金利の合法化を求め、これに反対する野党・運動側と真っ向から対立したのである。結局、各党と運動側、業界の間で議論はいつまで経ってもまとまらず、最終的には大蔵省が間に入って法案を成立させている。
こうして1983年に国会を通過した貸金業規制法では、上限金利は109.5%から40.004%へと半分以下に引き下げられた。業界の利害を重視する自民党は上限利率54.76%を求めていたから、野党や運動側の主張を認め、業界に一定の譲歩を求める判断だった。
その一方で、たとえ利息制限法違反のグレーゾーン金利であっても、債務者が任意に支払い、法令で定める書面が提出されていれば、有効な弁済とみなされることになった。いわゆる「みなし弁済」条項である。1968年の最高裁判決で「不当利得」とされたグレーゾーン金利が、貸金業規制法のみなし弁済条項によって合法化されたのである。
被害者の会や弁護士たちは、当然ながら「貸金業界寄りの法案で賛成できない」とすぐさま反対の意見を表明した。しかし、木村達也は成立した規制法を見て、腹の中で密かに「やった!」と快哉を叫んだという。約7年にもわたって繰り返し法案が流れたこともあり、上限金利40%が引き下げの限界と考えていたからである。当時の情勢は、それほどまでに厳しいものだったのだろう。
だが、みなし金利条項は後日に禍根を残した。2006年の貸金業規制法改正の際、グレーゾーン金利の扱いは再び大きな問題として取り上げられることになる。
成立後の法律を健全に成長させた弁護士たち
ともあれ、こうして1983年4月にようやく貸金業規制法が成立し、施行は同年11月からとされた。制定から施行までの半年余りの間に、大蔵省は規制法に関連する政省令を策定しなければならない。
その政省令案について、日弁連に事前の内示と意見の照会があった。大阪から呼び出されたサラ金問題研究会の木村達也たちは、東京のホテルに泊まり込んで内示された政省令を何回も検討し、貸金業者の債権取立規制をはじめ、詳細な規定を追加した。貸金業規制法に命を吹き込む政省令の検討過程で、木村たちは「この法律は私達が作ったのだ」という自負の念を強めたという。
さらに、貸金業規制法成立後も、木村たちは解説書を出版して各地で学習会を開催し、貸金業者の違法行為に対して厳しい告発運動を展開した。木村は、「成立後の法律を健全に成長させたのも私達だった」と語っている。貸金業規制法の成立・運用の両面で、被害者の運動とそれを支える弁護士たちの経験と手腕が果たした役割は、確かに極めて大きかった。
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