「ナックルがあったからこそプロ野球選手になれましたし、ここまで野球をつづけることができたと思うんです」
“ナックル姫”と呼ばれ、日本プロ野球史上で男子と同じチームに所属した唯一の女子選手である吉田えりは、しみじみとそう語った。
そう言うのは当然だろう。
吉田のストレートはMAXでも120キロに満たないほどであり、変化球はそれ以下のスピードになる。とてもではないがプロ野球では通用しない。
では、回転数が極端に少ないために空気抵抗を受けやすく、そのため不規則に変化する“魔球”ナックルボールならばどうだろうか。マスターすれば100キロそこそこの球速で変化し、パワーに欠ける人間でも投げることができる。そこに活路があった。(全2回の2回め/前編を読む)
『野球狂の詩』水原勇気の“ドリームボール”に憧れて
吉田は、水島新司のマンガ『野球狂の詩』の主役である水原勇気が好きだった。アンダースローの女子プロ野球選手であり、球威はないが抜群のコントロールでバッターを翻弄する“ドリームボール”に憧れた。
中学校3年生のときに父親からボストン・レッドソックスのティム・ウェイクフィールドの存在を教えてもらった。フルタイムのナックルボーラーとして200勝を挙げた大投手のピッチングを見て吉田は「これだ!」と確信し、夢中になった。自分が求めていたドリームボールであり、吉田はナックルボーラーになることを決意した。
野球雑誌に出ていたウェイクフィールドの握り方を覚え、空いている時間はもちろん学校の授業中も硬球を触った。
社会人のクラブチームに加入すると、ナックルばかり投げ込んだ。ときにはナックルの握りのままガムテープで手をぐるぐる巻きにして眠りにつくこともあった。
モー娘。のダンスを踊って掴んだコツ
尋常ではないナックルへの傾倒――。
しかし、こんな生活を1年半過ごしても、ボールはうんともすんともいわなかった。
「誰かに教わるわけにもいきませんし、とにかく無回転にすることを意識して、投げ込むしかありませんでした。近い距離からいろんな投げ方をしてもなかなか上手く行かない。私にはこれしかないんだ、という気持ちでしたが、諦めかけたこともありましたね」
だが野球の神様は予想もしなかったところで突然微笑むことになる。高校2年生のある日、キャッチボール中にファンだったモーニング娘。の『Ambitious! 野心的でいいじゃん』のダンスを踊りながらキャッチボールをしていると、ボールがあらぬ方向へ変化した。一番驚いたのは吉田本人だった。果たしてモー娘。のダンスのなにが作用しているのか理屈はわからなかったが、とにかくコツを掴むことができた。嘘のような本当の話。どこにヒントは潜んでいるかわからないものである。
これで手応えをつかんだ吉田は、日本初の女子高生プロ野球選手となり、活躍の場をアメリカへと広げていくことになる。