外見(そとみ)は人間。一皮剥けば、その実、虎にほかならぬ。
己の嫉妬心や猜疑心すら認めることができない小心(すなわち臆病な自尊心と尊大な羞恥心)こそが虎の元凶である、そう看破した「山月記」は、中国の唐代を舞台としている。むろん、「今ここ」と無関係ではない。すぐれた説話は洋の東西を問わず、時代を軽やかに越える。同様に、虎の隠喩も普遍的であり現代的である。そして、一個人のこととして突き刺さってくる。
「今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己(おれ)はどうして以前、人間だったのかと考えていた」(中島敦「山月記」岩波文庫版)
ここに記された「己」はまさにこれを書いている俺である。ただひとつ、「己」はいまだ人間への執着から抜け出られていない。その点俺は違う。編集者という、世間だが社会だかに向けた顔と皮膚をまとった男をむしろ冷ややかに眺めている。まだ、そんな虚皮にしがみついているのか、と。
その点、「山月記」の虎より、俺の虎具合のほうがはるかにはげしいだろう。40年来の艱難辛苦が虎となり、牙をむき、俺は虎そのものとなった。
己の阪神評に自信をもつ根拠とは
さて。本日、プロ野球が開幕戦を迎える。
俺は今から阪神タイガースの今シーズンを予想するつもりだ。その予想はおそらく的中する。そう、確信して疑わない。その疑わなさの根拠をまずは語りたい。独善的思い込みでないことを証明しようと思う。そのために、少しだけ俺の過去につきあってもらいたい。
1985年の日本一以来、阪神は、万年最下位と呼ばれる時代を過ごす。俺が中高生だった頃だ。その時期でさえ、俺は不思議と毎年、「阪神優勝」を疑うことはなかった。開幕から日本一までの流れをくる日もくる日も脳内シミュレートした。全球シミュレートしたことも少なくない。
高校生のときだ。母方の実家のある石川県の銭湯(なのに温泉。湯どころはいい)で、それをしてしまった。投手は数日後に先発予定されていた野田浩司だった。この日の野田のフォークはいつにもましてきれまくっていた。初球ストレート、ファール。2球目のストレートがボール、3球目……初回フォアボールを出すものの失点ゼロ。6回、最大のピンチを迎える。ノーアウト一二塁。この日初めてスコアリングポジションにランナーを背負う。ピンチ。そこから冴えまくる伝家の宝刀フォークボール。バッサ、バッサと連続三振。いや、ここでパスボールか。あまりの落差のフォークに捕手山田勝彦が後逸。……中略、としたい。その日、温泉の湯にあたり、私は真っ青な顔をして銭湯を後にしたことだけを報告しておく。
転機は1994年であった。俺は大学浪人をしていた。近所の自習室に通ってはなぜかそこに置かれてあったスポーツ新聞を貪るように読んだ。浪人生になることが決まった辺りから私の中の期待は例年以上に膨らんでいた。
超大物外国人がやってくる! バースの再来、間違いなし!!
キャンプが始まると、スポーツ紙だけでなく在阪テレビ局の報道も過熱するばかりだった。規格外のホームランを連発! 「場外ホームランが多すぎて困ります」と笑顔で球団職員の○○さんが言いました、的ニュースが飛び交った。そうして近隣の迷惑を考慮し、新たにネットが張られた。その名もディアー・ネット。レフトスタンド場外に設けられたその大きな網は、私の浪人時代の夢をしっかりつかんでくれるはずだ。阪神優勝という夢を。
……だが、その年の阪神は浪人生をあまり励ましてくれなかった。「2億7000万円の大型扇風機」と言われたその人について、これ以上話すことは控えよう。