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志村けん「仕事、女、酒の“正三角形”が理想」でも…吐露していた“本音”「家で待ってくれる人と子供がほしい」

東村山と麻布十番を愛した「最後のコメディアン」の素顔

2021/03/28
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 志村けんさんが、2020年3月29日に新型コロナウイルス感染症による肺炎で亡くなってから1年が経つ。翌3月30日に発表された志村さんの訃報を受けた当時、ノンフィクション作家の広野真嗣氏と「文藝春秋」編集部の取材班が校了までの限られた時間の中で総力取材を行った。在りし日の志村さんとの思い出を親族や親友らが明かしてくれた。

出典:「文藝春秋」2020年5月号
(※年齢・肩書などは取材当時のまま)

兄・知之さん(左)と親友・角田さんと

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志村は東村山が生んだスターだった

「今、志村と飲んでいるんだよ」

 3月29日、新型コロナウィルス感染症による重篤な肺炎で志村けんは急逝した。享年70。

 訃報が流れた3月30日夜、幼なじみの角田英光(70)は東村山市内の自宅で、酔い潰れかけていた。飲んでいた酒は、昔、志村とよく飲み交わした神戸・灘五郷「剣菱」。四合瓶はさして減っていないのに、喪失感が酔いのまわりを早くしているかのように見えた。

 地元・東村山市立秋津小学校の分校時代から中学を卒業するまでの9年間を共にし、2人はバンド仲間でもあった。志村が芸能界に入ってからも、仲は続いた。角田が結婚すると聞くやアパートまでお祝いに駆けつけ、ザ・ドリフターズの正式メンバーに抜擢されると「身辺整理して歯も矯正したよ」と吉報を伝えにきたという――。

 私は3月31日、西武新宿線東村山駅前の献花台に足を運んだ。脇に広げられたブルーシートの上まで花束の山で一杯になり、ロータリーは車で渋滞し、警察官が4人も5人も出て交通整理に追われていた。その光景を目の当たりにし、志村は、東村山が生んだスターだったんだなと改めて実感させられた。

東村山駅の献花台 ©広野真嗣

 新宿から急行で30分という便の良さから1960年代以降、畑や雑木林を次々と建売住宅に変えてベッドタウンと化していった東村山。ただ市内にランドマークがほとんどなく、特徴をつかみづらい。

 志村が喜劇王への階段を上り始めたのは1976年、ドリフターズの番組「8時だョ! 全員集合」(TBS)の中で地元民謡をもじってネタにした「東村山音頭」がウケてからだ。足を止めてスマホのマップを動かしていると、ふと「東村山音頭」にある〈庭先ゃ多摩湖 狭山茶どころ 情けにゃ厚い〉のフレーズに味わいがあることに気づく。

 村山貯水池(通称・多摩湖)の大半は隣の東大和市にあり、狭山茶は県境をまたいで北側の埼玉県狭山市のブランドだ。ちなみに「西武園」「西武遊園地」の2つの駅は東村山市域にあるものの、遊園地本体は所沢市に所在し、東村山にはない。

 考えてみると、こうした郷里の「なにもなさ」そのものをストレートに田舎臭いもののように揶揄すれば角が立ったに違いない。ところが志村のリメイク版には、三橋美智也の原曲にはない「4丁目」から「1丁目」がくっついている――。

 再び歩き始めて向かった志村のいとこ、小山政雄の自宅で聞いた話に膝を打つ思いがした。

「そんな地名ないだろと文句を言ったことがあるんです。するとあいつは『誰か傷ついちゃいけないでしょう』と答えたよ。あえていい加減な地名に変えているんです」

 “イッチョメイッチョメ、ワーオ”という独特のビートとおかしな動きで踊りだし、「やめろやめろ」といかりや長介が止めると、「やれやれ」と客席。「よーし」と志村が調子に乗ると、ばかばかしくてみんなが盛り上がれる笑い。それでいて、誰も傷つけない。志村の真骨頂だった。