タモリやビートたけしに「立ち向かおうという気はないんだ」
90年代半ばまでに「だいじょうぶだぁ」などが相次いで終了するが、その後も第一線で活躍し続けてきた。志村の笑いは何が傑出していたのか。「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の構成作家も務めた西条昇江戸川大学教授はこう語る。
「『マックボンボン』のステージを浅草の国際劇場で見た時、志村さんがボケた相方に突っ込みを入れた光景は鮮烈でした。なにしろ手のひらではなく足で、隣にいるのにかかと落としみたいにぐーんと上げた足を下ろして足の裏ではたく。テコンドーみたいなキレのある動きに小学生だった私は目を奪われました」
志村のいとこ、小山政雄もマックボンボン時代の言葉を覚えている。「飲みに行くのも『年配の人たちが足を運ぶような一杯飲み屋に行かないと勉強にならない』とよく言っていた。自分がしたことのない体験をしているような年上の人たちが酔っ払ってどんな仕草をするとか、どんな合いの手を打つのか、そういうことは熱心に研究をしていました」
志村が特に影響を受けたのは亡くなった米国の喜劇俳優、ジェリー・ルイスだ。「底抜けてんやわんや」という作品で、一人のボーイが1時間一言もしゃべらずにドタバタのヘマを繰り返す情景は、志村のコント「変なおじさん」や「ひとみばあさん」に通じるものがある。活躍してからも、六本木のレコードショップ「WAVE」に通っては、国内外の映画のビデオテープをまとめ買いした。公開されないコメディ映画にも目を配り、痛飲した後でも気になれば朝までビデオデッキにかけていたという。
「多くのお笑い芸人が言葉に頼るのと違い、志村さんは体を動かして笑わせる。こうした表現は、隠し事で慌てるとこんなリアクションをするよな、という人間を客観的に観察して再現する能力がなければできません。『ひょうきん族』で登場した“楽屋オチ”は、当時の人には面白かったけれど、今の人が見ると時代の空気感が分からない。一方で人間の滑稽さには普遍性があり、どの時代の人も笑えるのです」(西条氏)
実際、“カトケン”の全盛期の頃に受けたインタビューでは、タモリやビートたけしらについて問われ、こう答えている。
〈タモリさんやたけしさんみたいにトークがうまい人に立ち向かおうという気はないんだ。ライバルなんて思ってないよ。その代わり、コントに関しては負けないっていう自信はあるけどね〉(「週刊現代」89年9月9日号)
最後まで貫いたのは「お笑いは動きが7、言葉が3の配分」という哲学だった。04年からは動物好きが高じて「天才!志村どうぶつ園」で司会を務めたりもしたが、仕事の中心は常に「コント」。06年には舞台「志村魂」をスタートさせるなど、舞台喜劇にも力を注いできた。
今年は、70歳にして志村の新たな挑戦に注目が集まっていた。
初の主演映画「キネマの神様」の顔合わせを済ませたばかりで、NHKの朝の連続テレビ小説「エール」に出演する12月25日夜、麻布十番の寿司屋で開かれた親族との古希を祝う席でも、志村自身、そのことを楽しそうに話していたという。この席で芋焼酎と紫色のちゃんちゃんこをプレゼントされると、恥ずかしがって拒みつつも、最後はまんざらでもない表情で袖を通した。
麻布十番の喫茶店「おもかげ」にも2月中旬、志村の姿があった。定番のサイフォンコーヒーを注文し、テレビの製作会社のスタッフ6人といつものように打ち合わせをしていた、と店主の田口はる代は語る。
「1月に胃のポリープを切除されたという報道があったけど、静養されたのでしょう。とてもお元気に見えました。その前にお目にかかった時より肌艶がよかったぐらいでした」
親族がタブレットの画面越しに目にした、治療室の志村の姿
ところが――。
異変が生じたのは3月17日。倦怠感に襲われた志村は2日後に発熱して呼吸困難に陥った。訪問診療に駆けつけた主治医の判断で病院に搬送されそのまま入院したのが、3月20日だ。主治医が証言する。
「飲んでいて具合が悪い時は『目眩がする』とLINEとかで直接連絡もくるけど、今回はマネージャーさんからだった。一目でいつもの志村さんでないと分かり救急車をお願いしました。事務所の方はメディアに察知されることを気にしておられたがそれどころではなく、サチュレーション(血中の酸素飽和度)が異常に下がっていた。搬送先の病院で撮ってもらったレントゲンにはもう肺炎像が写っていました」
23日に新型コロナウィルス陽性との検査結果を受け、新宿の国立国際医療研究センター病院に転院。28日、病院からの呼び出しで長兄夫妻、次兄夫妻と甥の5人が駆けつけた時、タブレットの画面越しに目にした治療室の志村は目を閉じて意識がなく、会話を交わすこともできなかった。重症者の治療に有効とされている人工心肺装置も、志村には効果が見られなかったという。
人気者になって間もない頃、志村と2人で交わした約束があったと、幼なじみの角田は振り返る。
「歳をとったらこうしたいな、という話になると、志村は美学を語るわけ。『東京で毎晩派手に飲んではいるけれど、本当に格好いいのは蕎麦と日本酒だよ。2人で酒を持ち寄って、蕎麦にツユは要らない』とね。70になった時にやりたいと話してたから、今日は約束を守ろうと思って志村に酒を注いでいてね。だからこれは2人で飲んだ分なんだ」
そう言って角田はボトルの減った空間を2本の指で測ってみせた。
毎年大晦日には志村は必ず、長兄の知之の家族が暮らす実家の一軒家に愛車に乗って顔を見せ、元日まで過ごすのが恒例だったという。その愛する東村山の町に、70年の生涯を駆け抜けた“最後のコメディアン”は帰っていった。(文中敬称略)
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