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志村けん「仕事、女、酒の“正三角形”が理想」でも…吐露していた“本音”「家で待ってくれる人と子供がほしい」

東村山と麻布十番を愛した「最後のコメディアン」の素顔

2021/03/28
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父の名から「けん」という芸名を付けた

 その東村山にまだ戦後の焼け跡が色濃かった1950年、志村は3人兄弟の末っ子として生まれた。教師だった父・憲司と母、祖父母に加え、未婚の叔母を含め、8人が同居する大家族だった。師範学校卒の元軍人で柔道五段、志村の物心つくころには教頭だった父は口答えをすると正座を強い、殴ることもあった。

 意外なことにその父の存在がお笑いに進むきっかけになったと、志村はインタビューで語っている。

〈家は重苦しい雰囲気なんだけど、中学時代テレビで放映していたエノケン(榎本健一)さんの『雲の上団五郎一座』が、僕大好きで、家族でそれを見てると、あの堅物な父親が笑いをこらえてんだよ。それを見て、素直にお笑いっていいなって思った〉(「週刊文春」2012年10月11日号)

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「僕はコントしかできない」と語っていた志村けんさん ©文藝春秋

 憲司は志村が中学の頃に遭遇した交通事故の後遺症で記憶機能に障害が残り、志村のドリフターズ加入前に亡くなっている。だが、その父の名から「けん」という芸名を付けた。

 一方、夫との暮らしに苦労を重ねた母・和子は15年、96歳で亡くなった。芸事が好きだった和子は志村の夢にも理解があり、少年期の息子のことを生前こう話していた。

〈座敷の中央にカーテンを吊るしてそこを舞台にして、一人でなにやら演じてみたり。1本の棒でチャンバラをやるんですが、動きがあまりに変なので、お腹をかかえて笑ったことを覚えております〉(「女性自身」04年3月16日号)

 幼なじみの角田が、中学の文化祭で志村とやったあるコントの逸話を話し始めた。

「コントをやりたいと言い出した志村が、なぜかクラスの違う俺を指名して。セリフもなしに2人で殴り合いをする内容で、当たっても文句を言わないからと私に白羽の矢を立てたらしい。人を笑わせるのには話術が要る、2人で掛け合いをするやり方もあると思う、と言うと、志村が『違うんだよな』と言いたげに浮かべた難しい表情を覚えています」

 本番はどうなったか。

「セリフなしでやりました。たった2、3分ほどの場面なのに、今でも覚えている同級生がいる。それほどインパクトの強いものでした」

 よくセリフの面白さより動きの面白さを優先するのがドリフの特徴だと指摘されるが、中学生の頃からその萌芽があったのだ。

 コメディアンの道を志した志村は都立高校2年の時、担任教員の伝手で喜劇俳優の由利徹の門を叩いたが、すでに門下生を多く抱えていた由利からは断られてしまう。そこで「とりあえず大学に行った方がいいですか」と問うと、由利は言った。

「行ったら気が変わっちゃうぞ」

 この言葉に決意を固めた、と自著『変なおじさん』に記している。

ドリフを支えていた自負

 卒業直前の68年2月、志村は新宿区の牛込若松町にあったドリフターズのリーダー、いかりや長介の自宅を調べて直談判に向かう。玄関先で本人の帰りを12時間粘って待ち、入門を懇請。1週間後、「ボーヤ」(「付き人」の通称)として認められ、初任給5000円の共同生活が始まった。ただ、下積み生活に行き詰まりを感じた志村は72年に一時独立し、ボーヤ同士で「マックボンボン」というコンビを組んでいる。

 植木等の付き人を務め、ボーヤとしては志村の先輩にあたる、俳優・小松政夫は当時を知る一人だ。

「マックボンボンは面白かった。ただ、彼は(相方より)力が勝ちすぎたのかなと感じていました。それでコンビも解消したんだけど、そのうちに頭角を現してきた。長さんたちとご飯を食べている時、『志村を(ドリフに)入れる、入れない』という話が出たのを覚えていますね」

ドリフでは最年少 ©共同通信社

 笑いに貪欲な姿勢がいかりやに認められ、74年、24歳でドリフに正式加入。当初は苦労したというが、自身も転機だったと語る「東村山音頭」のヒットもあり、一躍ブレイクする。さらに「ヒゲダンス」や「カラスの勝手でしょ」といったギャグも次々ヒットした。

〈ドリフのいいところは、リーダーのいかりやさんがきちっとまとめているんだけれども、各メンバーのアイデアを積極的に取り入れる柔軟性や自由な雰囲気があったことですね。『面白そうじゃん、やってみよう』みたいなノリで、僕みたいな若造の意見もずいぶん取り入れてくれました〉(前出・「週刊文春」)

 遠慮がなくなっていくにつれ、志村には自分がドリフの人気を支えているという自負も生まれる。ドリフのコント作りも、いかりやに代わり、加藤茶と志村で担うようになった。

 だが、ビートたけしや明石家さんまらの「オレたちひょうきん族」の人気が沸騰すると、「全員集合」は85年に打ち切りになる。それでも翌86年、加藤茶と組んでスタートした「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」(TBS)は平均視聴率22%を超え、87年開始の「志村けんのだいじょうぶだぁ」も平均視聴率20%。「変なおじさん」は、この「だいじょうぶだぁ」で最も頻繁に登場するキャラクターとして視聴者に親しまれることになった。