なんとも意表をつく本である。ふだん私たちの得ているウナギ情報は全て日本発のものだが、本書はスウェーデン人ジャーナリストの作だ。視点がまるっきりちがう。
古来、ヨーロッパではウナギはその外見や動き、特殊な生態から、無気味で気持ち悪い魚と思われていたという。一方、庶民の間では安くて栄養価が高い食材として人気があった。ロンドンでは焼いたウナギにマッシュポテトをつけた料理が労働者の日常食であり、スウェーデンでは国王がウナギの漁業権を貴族や聖職者に分け与えることで権力を維持していた。ちなみに、スウェーデン南部では今でも「ウナギ祭」が行われ、黒ビールで蒸し煮にしてバターで炒めたウナギの燻製なんて凝った料理を食べるという。
しかし、西洋人にとってウナギが「謎」「神秘」の代名詞的存在だったとは、ウナギに親しみすぎた日本人には想像もつかない。実際、ウナギは生物学上、「最も謎に満ちた魚」なのだ。体長数ミリの幼生のまま大海を何千キロも泳いでから川を遡るなんて奇妙な魚はウナギだけだし、定住すると十五年から三十年もほぼその場所に引きこもり、ある日突然思い立って遥かなる故郷の海へ帰るという風変わりな生涯も詳しくわかってきたのはごく最近のことだという。
なにより驚くのが、川や沼にいるとき、つまり私たちが目にするような状態のとき、ウナギには生殖器がないということ(海に帰ったとき生殖器が発生する)。そこで昔から「ウナギはどこからやってくるのか?」という論争が続いた。自然科学の祖でもあるアリストテレスはウナギを解剖しまくったあげく、「泥から生まれる」と半ば諦めたような結論を下した。精神分析のフロイトも実は若い頃ウナギのオスの生殖器を見つけるという野望に燃え、丸一年ウナギを解剖し続けたが、発見できずに挫折した。後年彼が性器に偏執した理論を編み出したのは「ウナギのトラウマ」だった可能性が高い――。
こういう「ウナギ文化誌」部分だけでも興味満点だが、それは本書の縦糸である。横糸は、これも意表をつくことに、「父と子の物語」なのだ。著者の父親は道路舗装の労働者だったが、なぜかウナギ釣りが大好きで、毎年夏になると、親子はウナギ釣りに明け暮れた。父がなぜウナギ釣りをそれほど好んだのかわからない。父が何を考えていたのかも本当のことはよくわからない。わかっているようでわからないもの。父親とウナギ。ウナギと人生を重ね合わせ、科学から思索へ、思索から詩情へと揺れ動く文章がとても心地よい。
最後になるが、スウェーデン在住の友人から「本書がオペラ作品化され、来年春にストックホルムで上演予定」というニュースを教えてもらった。ウナギオペラ!! どこまでも意表をつく作品なのである。
Patrik Svensson/1972年生まれ。ジャーナリスト。スウェーデンの日刊紙「シズヴェンスカン」で芸術・文化担当記者を務めた後、執筆に専念。本書『ウナギが故郷に帰るとき(The Gospel of Eels)』が初の著作で、スウェーデンで最も権威ある賞August Prizeをノンフィクション部門で受賞。
たかのひでゆき/1966年、東京都生まれ。ノンフィクション作家。近著に『幻のアフリカ納豆を追え! そして現れた〈サピエンス納豆〉』。