株価や地価などの資産価格が急激に上昇し、異常ともいえるほどの好景気を迎えたバブル期。多くの企業や地主が莫大な利益を得ていた背後で暗躍したのが「ヤクザ」たちだ。手段を選ばない方法で、彼らはさまざまな“汚れ仕事”を請け負っていた。果たして、その具体的な方法はどんなものだったのだろう。
ここでは、別冊宝島編集部が執筆した『日本のヤクザ 100の生き様』(宝島社)を引用。ヤクザの資金作りの実情について紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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弘道会とセントレア、宅見組と関空
空港、原発、大型橋梁――これらの開発事業では従来、広域暴力団が大きな利権を握ってきたとされる。広大な用地買収や埋め立てに伴う漁業権の整理、複数県にまたがる工事の利益配分から完成後の騒音対策まで、あらゆる関連事業に食い込んで巨額のカネを吸い上げてきたのだ。某組織の企業舎弟が語る。
「六代目山口組と神戸山口組の最高幹部たちを見れば、いずれもデカいシノギを手にして成長したことがわかる。弘道会がセントレア(中部国際空港)に食い込み、宅見組が関空(関西国際空港)の事業を仕切ったのは有名な話だ。ほかには福井の正木組が日本海側の原発、淡路島の俠友会が明石海峡大橋や大鳴門橋の建設にからんで力をつけた」
ヤクザが高額の上納金を納めながら大組織での出世を目指してきたのは、組織のトップに近づくほど地元政財界の「信用」がつき、大型の開発事業に食い込んで大きな利益を得られるようになるからだった。
一方、都会派のヤクザのなかにはまた別の生き方をする者たちもいた。資産インフレが続いていた高度経済成長期には、どれだけ早く動き、有望な不動産を確保するかが商売の要でもあった。
「典型的だったのが、パチンコ屋。いまは郊外型が主流だが、昔は駅前の一等地を、相場より高いカネを使ってでも押さえなければならない。当然、同業者と競合するからヤクザの腕力もいるわけだ」(西日本の金融業者)
どんなビジネスにも「汚れ仕事」の需要はあるものだが、それが最も露骨なかたちで表れたのが、バブル景気における「地上げ」だった。1980年代における地価高騰は、銀行の貸し出し競争と、それをウラで支えた地上げビジネスの共同作品だったといっても過言ではない。
不動産バブルで潤った銀行とヤクザ
日本の金融界は戦後長らく、旧大蔵省が主導する護送船団体制下で横並びの状態にあった。それが、80年代の金利自由化で生存競争に突入。これが不動産バブルと重なり、銀行は土地の担保さえあれば湯水のように融資を吐き出した。
この頃、ヤクザのフロント企業が主に手がけたのが「地上げ」である。銀行やデベロッパーは背後にヤクザがいることを知りつつ、あえてフロント企業を使っていた。なぜか。最大の理由は「スピード」である。正規の手続きをショートカットして、力ずくで仕事をまとめる技術だ。